西野そらの日々の事ごと

「書く」ことを暮らしのなかの一つに。日々の些事をどう受け止め、考えたのか。忘れないように。

裏切る記憶

 「カレー、食べたいな」夫の言葉にわたしは頷く。うん、おいしいカレーが食べたい。

 カレーを食べたくなることも、ましてや食べたいタイミングが夫と重なることも珍しい。一気にカレーへの思いが募る。欧風カレー、インドカレー、タイカレー。さあ、どれにしよう。

 ところが、夫はカレーのタイプではなしに、とあるカレー屋さんが浮かんだらしいのだ。30年近く前、友人と行ったという評判のカレー屋さん。

「あそこのカレーが食べたいんだ」

 

 そんなわけで、夫とともに件のカレー屋さんの店先に並ぶ。昼時を過ぎているというのに、わたしたちの前には6組の老若男女が待っていた。およそ30年ぶりに訪れた夫はこの人の列に驚いたようであった。わたしは期待が膨らみ、

「どんなカレーなの?」

夫に訊いた。が、夫は首を傾げただけだった。どんなカレーかは覚えていないが、おいしかったという記憶はあるのらしい。

 こういう記憶の止まり方は……、ある。事柄や原因は忘れているけれど、とにかく楽しかったとか、ひたすら悲しかったとか。ものすごく痛かったとか。感情だけの記憶。

 そして、こういう場合たいていは、記憶に裏切られる。同じものを食べても、同じような目にあったとしても、アラっ? こんなだったっけと拍子抜けするような裏切られかた。

 記憶は思い出すたびに上書きされてゆくと、きいたことがある。上書きされてゆく過程で記憶が膨らんだり、実際に経験したことで耐性がついたりして、拍子抜けと感じることが少なくないのかもしれない。

 

 ともかく、記憶とは存外あやふやなのだ。

 夫が覚えていなかったカレーは、数数の香辛料をつかい薬膳の香りを放つインドカレーであった。そして夫は「おいしい」とか「これこれ」とは、ついぞ言わなかった。

 

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雲の感じが珍しくて。

西野 そら