西野そらの日々の事ごと

「書く」ことを暮らしのなかの一つに。日々の些事をどう受け止め、考えたのか。忘れないように。

生まれ変わるとしたら

 「もう、生まれてこなくていい」

いまの知識と記憶を残すことがきるとして、次に生まれて来るとしたらなにになりたいかと夫に訊いたら、こう返ってきた。またまた、なにをおっしゃいますか。真剣なはなしじゃないのよ。いまの知識と記憶があって生まれ変わるとしたらっていう、もしもの話ですよ。念をおしてもう一度訊いてみる。

 それでも夫は、いまを十分頑張って生きてるから、また生まれてきてこれを繰り返したくはないのだそう。こう書くとなにやら深刻そうであるが、夫もわたしも笑いながら話している。笑ってはいるが、もしもの話というのに生まれてこなくていいと言い切る夫の生きることへの切実さ、一家を養う大黒柱の責任と言うか、男の悲哀というのか。そんなものを夫はほんの少し匂わせたのだった。

 

 と、ここまで書いて気がついた。昨年が銀婚式だった。夫もわたしも記念日には重きをおかない。それだから、これまで結婚期間を考えたことがなかった。25年以上もともに過ごしてきたとは……。

 夫の新入社員の時代は上司や周りの社員にいかに仕事をしてるように見せるか。仕事終わりにどうしたら先輩の誘いをくぐり抜け飲みに行かないですむか。そんなことに工夫を重ねるような若者であった。仕事より家にいたい若者は子煩悩な父となっていった。そして年齢とともに仕事も重責をになうようになり、いつからか取締役の任を受けたのだそう。なのだそう、とはあまりにも他人事すぎるか。

 家では若者がおじさんになったという夫の変化は感じてきたが、おじさんが取締役になったという変化をそうそう感じない。それだからなんだか他人事のような気がしてならないのかもしれない。

 出勤前わたしからゴミ袋を受け取る夫は「取締役なんですけど」と、ふざけて役員の身を主張したり。車の買い替えを実現させるべく、折にふれサブリミナル効果さながらに車のパンフレットをわたしのまえでチラつかせたりする。これだから一向に役職と夫とがつながらないのだ。

 しかし、ふざけたがりの夫が「もう、生まれてこなくていい」と言いきった。楽しみと苦しみ、喜びと哀しみが綯い交ぜになっているのが、生きるってことだ。

  

f:id:sosososora:20180619032629j:plain

数日まえの月

西野 そら