西野そらの日々の事ごと

「書く」ことを暮らしのなかの一つに。日々の些事をどう受け止め、考えたのか。忘れないように。

帰宅ラッシュの電車で。

「ふざけんな、この野郎」

帰宅時間帯で混み合う電車内。静やかな空気をこの凄みのある声が震わせた。凄みはあるが、しわがれてはいない。声の主は座席の端に座る男性。作業服のモジャモジャ頭だ。

「野郎」とは、ドア横に立っていた50代後半ぐらいの男性(以下リュック男と呼ぶ)のこと。降車するために網棚からリュックを取ったそのとき、リュックの肩掛けのダラーンと長い調整紐が声の主の頭に当たったのらしかった。が、リュック男はそれに気がつかずに無言のまま、向こう側のドアへとゆこうとしたのだ。

 わたしはリュック男の隣に立ち、声の主を斜から見下ろていたものだからモジャモジャ頭が目につき、コトのいきさつを想像できた次第である。

 リュック男はイヤホンをしていたが、投げつけられた言葉に反応した。歩をとめ振り返り、声の主を睨みつけた。ピクリともせず睨んでいる。一方の声の主の表情はわたしの位置からは見えないから、よけいに不安になる。どうして行かないの?睨んでどうする?声の主とリュック男のそばに立っているわたしは大事にならないか気が気でない。周りの乗客も素知らぬふりをしながらも固唾を呑んで見守っていたのに違ない。

 電車内での口論から逆上し刺す。かつて見たニュースがふと頭をよぎる。早く降りなさいよ。大人なんだからいちいち腹を立ててどうする?胸の内で早く降りろと送った念が届いたのか。いや、たんに発車ベルがなり終わったからなのだけれど、リュック男はドカドカと降車していった。

 ああ、なに事もなくてよかった。

 それにしても、わざとしたことでなしに、いってしまえば取るに足らないようなことにどうして怒鳴るのだろう。それに怒鳴られたからといって、ずっと睨みつけたくなる心もちとはどういうのだろう。

 それぞれの立場になったら、どうする?後日、友人たちに訊いてみた。

「痛かったら、当たったことを伝える」「わざとじゃなかった何も言わない」「その時の気分」「急に怒鳴られたら謝らない」「当たったことは謝るけど、怒鳴ったことへの抗議をする」「謝ったら、立場が弱くなる」。ホント、ひとそれぞれ。

 当たったことを伝えるというのは、伝えることで以後、当てた人は注意がゆき届くようになるから、なのだとか。ほぉ、そう言う考えかたもあるのか。とはいえ、伝えたからといって、今後まちがいなく、いつでも注意がゆき届く立ち居振る舞いができるかといえば、そういうわけにもいかなくないか?うっかり者のわたしは思うのである。でもしかし、伝えることの必要さ、大切さはたしかにある。

 それだから。相手を思う言葉であったとしても、言葉に気持ちががんじがらめにならないためにも、させないためにも伝える力をつけなけりゃ。と考えるのだが、これがなかなかどうして難しい。

 でもね。簡単に許せないことはあるとしても。

 なんども同じまちがいを繰り返しながら、失敗もしながら、そんな自分に腹を立てたり、泣いたり、笑ったりして、案外ヒトはいろんなことを許せるようになってゆくような気が、今のわたしはしてもいるのです。しょうがないか。仕方ないか、と思いながら。

 

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3月17日。

近所の公園に咲く白木蓮。

惹きつけられるのはこの白さのせい?

西野 そら