西野そらの日々の事ごと

「書く」ことを暮らしのなかの一つに。日々の些事をどう受け止め、考えたのか。忘れないように。

西川さん

 ときどき名字を間違えられる。結婚する以前にはなかったことで、十中八九、西野が西川となるのだ。

 最初に呼び間違えられたのはおよそ20年まえ。長女が幼稚園に入園したころに遡る。

 ようやく親子ともども園生活になれ、子どもたちがそれぞれの家を行き来するようになった秋を迎えるころ。翌日一緒に遊ぶことになっていた子どものかあさんと幼稚園で立ち話をしていた。

「西川さん、明日は何時ごろにする?」

「えっと、西野ね」

 訂正するも、名前を覚えられていない気まずさが、ほんの一瞬、胸の内に沸き起こった。しかし間違えた当の本人はごめん、ごめん。さほど気にするふうでもない。だれしも間違いはある。わたしなんぞ間違えるどころか、数日話さないひとは同じクラスのかあさんといえども、すぐに名前がでない。それにくらべたら呼び間違いの方がよほどマシだとも思えた。

 ところが、このひとはそれ以降もたまにではあるが、わたしを西川さんと呼んだ。「西川さん」と言うや「ごめん、西野さん、西野さん」と言いなおしたり、気づかぬまま話が進んだり。このひとによると、西野より西川のほうが聞き慣れた名字だからつい間違える、ということらしかった。たしかに聞き慣れた名字、聞き慣れぬ名字というのはあるような気がする。そうか、西野は聞き慣れぬ名字と感じるひとがいるというわけだ。妙に納得したのだった。

 以来、娘ふたりの小学校、中学校、高校のどの時代をとっても、数度訂正をしたとて西川さんと呼ぶひとが1人、2人はいた。子ども関係以外の友人にもそういうひとはいるし、夫や娘たちも間違えられるのは、西川名(めい)のただひとつと言う。それだからいまでは、ほとんど訂正しない。西川さんと呼ぶ人もおそらく頭の奥深くではわたしを西野と認識はしていると思うからだ。

 いや、西なんとか程度の認識のひともいるだろうが。

 かりに、和田さんとか山口さんとか、どこからその名字がでてきたの?というような呼ばれ方をしたなら、あまりの認識されなさにがっがりし、悲しくもなるだろうけれど、今となっては、たとえば名前を忘れて口ごもるようなことがあっても「西野ですよ」と助け船だってだせる。付き合いの年数、親しさの程度にかかわらず、友人の名字がでてこないことがわたしも少なくないからだ。あの名前がでてこないときのもどかしさといったら、ない。

 

 実を言えばわたしにも呼び間違える人がある。夫の友人、塚田さんと塚本さんだ。わたしにとっては塚田さんが聞き慣れた名字。夫に塚田さんのことを話すときも、塚本さんのことを話すときにも、わたしは塚田さん言っているらしい。無論、悪気はない。

 

 

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長女がチョコレート持って帰りました。

これをみて、「なにつくろうか、ママ」

次女のあたまのなかはすでに

バレンタインデーに向いているのだな。

でも、わたしに頼る気満々、ですよね。

西野 そら