西野そらの日々の事ごと

「書く」ことを暮らしのなかの一つに。日々の些事をどう受け止め、考えたのか。忘れないように。

 テレビをつけると、プロ野球の野村元監督が門前で、夫人が亡くなったことを報道陣に話す姿が映っていた。わたしの記憶する監督よりも年老い、しばらくテレビにくぎづけとなる。

 門前の取材映像が終わると、野村元監督夫妻の過去の映像がながれはじめた。それがいつ頃の映像なのかはわからないが、たびたびテレビで監督夫妻を見た当時の、つまりわたしの記憶している監督がインタビューに応えていた。

 なにかと世間をにぎわせている沙知代夫人との結婚についての質問に、

「良縁、悪縁、奇縁と縁にもいろいろあるけど、せっかく結婚したんだから、良縁にしたほうがいいじゃない、そのために互いに努力するんですよ」

 言葉は少しちがうかもしれないが、そんな内容であった。

 

 良縁にするために努力する。ここで、わたしは唸る。たしかにそうだなあ。

 他人との生活なんぞ、努力なくしてはうまくゆかないのだ。はじまりは盲目的な愛があれど、そんな感情など長くは続かない。痘痕(あばた)を靨(えくぼ)と勘違いしていたと気がついた時点から努力はじまるのかもしれない。互いに歩み寄るためにケンカをし、そして修復させる。この修復は努力なしにはできないし、ケンカと修復の繰り返しも努力であろうし、気づかぬふり、見ぬふりも努力であろう。

 

 これは夫婦間だけのことではないかもしれない。他者との関係性においても、その縁が良きものとなるように距離をはかりはかり、できぬときがあるにしても、互いの立場を尊重しようと心を配ったり、相容れぬことがあってもいちいち気にしないようにしよとしてるじゃないの、わたしたち。

 考えてみると、良縁という言葉はとかく関係性の持続という点に気持ちが向きがちであるが、たとえその関係がきれることがあってもだ。そのかかわりでしか経験できないことがある。一旦は悪縁と思われた縁も、時の移ろいにより良縁の部類にいれてもいいか、と、いつかは思い直すこともあるかもしれない。

 

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西野そら