西野そらの日々の事ごと

「書く」ことを暮らしのなかの一つに。日々の些事をどう受け止め、考えたのか。忘れないように。

居合せる

 土曜日。

 到着予定時刻を5分過ぎていたが、待ち人来ず。出入り口付近で賓客を迎え入れようと待機していた、いつもは険しい顔つきの上司が、うろたえている。

「まだ、おみえにならないのよ」

 さらに5分後。変わらぬ状況に、もはやすがるような目で、

「困ったなぁ」

 と、上司は言い言いあたりをウロウロして、また出入り口にもどる。

 遅れているといっても、まだ10分を過ぎた程度。そこまでうろたえるような事態ではなかろうに。とは思うものの、これは責任を追わない立場であるゆえの考えだ。このまま到着時間が遅れていったら……。もしも来られなかったら……。最悪の事態を想定し、対処しなければならない上司の立場ではこの10分が、たかが10分とは思えないのもわからないではない。

 困っている上司に立場の違う周りの者たちは「遅いですね」「そろそろお見えになりますよ」無責任ではあるが共感のことばや肯定的なことばをかけるしかできない。

 結局、賓客は15分遅れで到着し、上司はいつものキリリとした顔つきにもどった。

  

 日曜日。

 夕飯の買い物にでかけたときだ。スーパーマケットの広い平面駐車場に車を止め、隣の車にぶつけないようにドアを開けようとしたその時、隣の車の中に半ベソをかいている男の子の顔がみえた。小学校に上がるか上がらないくらいだろうか。ギョッとしつつ車を降りる。うちの車のまえにまわり、夫がおりてくるのを待ちながら、さりげなく隣の車の様子を窺う。どうやら男の子がひとりでいるよう。この子もまた、すがるような目でわたしの顔を見ている。

「だいじょうぶ?」と口パクで訊く。すると「だめ」と男の子の口が動いた。「だめ?」訊き返すと首を縦にふる。「ちょっとまってて」口パクで答え、ナンバープレートの数字をノートに書きうつす。夫はその場に残り、わたしは急いで店に走った。

 受付で説明をすると、店内放送でナンバーを呼び出し、車の主人(あるじ)を待ったが、それらしきひとは現れない。とりあえず車の位置を教えるべく、店の人と駐車場に向かっている途中だった。「お祖父ちゃんが戻ってきたよ。そっちにいくから」と夫から電話がはいった。

 大事に至らずにすんでよかった、よかった。一人でよく耐えた。エライ。という話なのだけれど、ふと、ふと思ったのだ。 

 年々少なくはなるだろうがいくつになっても初めてのことはあるわけで、どんなひとであろうが困るときには困る。そして。年齢に関係なく、困ったことに向き合い対処する(対処しない)のは困っている当事者だけなんだなぁ、と。

 周りの者も困っているふうではあるけれど⎯⎯⎯困っているひとが子どもの場合には解決の緒(いとぐち)になるようなことしてやれる場合はあるが⎯⎯⎯ただ、一緒に困っているのであって、言ってしまえば一時だけ、我がことのように困っているという感じじゃなかろうか。

 状況が変わるまで(変わらない場合もあるだろうが)そのことに向き合うのは、やっぱり当事者だけなのにちがいない。困った状況を経験しながら、知らぬうちにひとは孤独になれ、耐え、親しくなるのかもしれない。

 偶然にも定年間近の大人と、おそらく小学一年生前後の子どもがそれぞれに困っているところに居合わせることとなった、この週末。

 

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小金井公園(東京都小金井市)の陶器市でもとめた

陶板皿。これで焼くと、野菜も肉も魚もなんでも

おいしくなります。(個人の感想です)

西野  そら