西野そらの日々の事ごと

「書く」ことを暮らしのなかの一つに。日々の些事をどう受け止め、考えたのか。忘れないように。

たどりつく。〜ものは言いよう その2 〜

 少し前にものの言い方、伝え方のことを書いた。(8月22日「ものは言いよう」)

 じつを言えば、書いたそばから、こういうことを書こうとしていたんじゃないな、わたしは。そんな思いがないわけではなかった。しばらく頭のすみで書きたかった核心を思い出そうとしたのだけれど、たどりつけないままだった。

 

 9月のある日、図書館でのこと。

「評論、エッセイ、随筆」の書架の前にわたしは立っている。

 ちょうどわたしの目の高さで『ものは言いよう』と書かれた背表紙がきらりと光った。あら、同じ。すかさず本を引き出す。嬉しさと驚きがあいまって引き出したその本は、なんと平岩弓枝のエッセイであった。同じだなんておこがましいにもほどがある。

 パラパラ頁を繰る。ふいに表題作「ものは言いよう」のエッセイをさがしあてた。今読みたい。すぐに読みたい。とはいっても、落ち着いてい読みたい。はやる気持ちをおさえ、本を貸りて帰った。

 

「言葉の上だけとりつくろってどうするのだというかもしれないが、言葉は心である。言葉に心くばりがあるのは、その人の人柄を見る鏡」(『ものは言いよう』講談社

 

 言葉は心である。これだ。わたしがたどりつけなかった核心はこれだった。

 言葉には人柄がにじみ出る。どういう自分でいたいのか、ありたい自分でいるには。言葉に心配ることは自分自身にも心くばることなのかもしれないと、ふと、思う。

 それにしても、この本と出合うタイミングの不思議。宗教とか何とかは信じないタチであるが、引き合う力みたいなものはあるような気もする。きっと若いころにこれを読んでいたら、とりつくろうという言葉につかまって、反感を覚えたにちがいない。若かりしころのわたしには、とりつくろうということは恥をかかないよう、自分のためのごまかしでしかなく、悪しきことでしかなかった。

 しかし自分の体裁のためでなしに相手を思うからこそ、とりつくろう言葉や態度がある。このとりつくろいは、むしろ大事。40歳を過ぎたあたりからこう思うようになった。

 角を立てずに伝える。どうにかできそうな類ではあろうが、たんに年を重ねたとて、備わるものではないはず。失敗しながらも経験を重ねてゆくしかなさそうである。小心者だからと、言うべきことを言わずにやり過ごしてばかりなんぞいられないのだ、わ。

 

sosososora.hatenablog.com

 

 

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道沿いの木立で

大きなきらきらした蜘蛛の巣を発見。

蜘蛛ったら、なんて几帳面。

西野 そら