西野そらの日々の事ごと

「書く」ことを暮らしのなかの一つに。日々の些事をどう受け止め、考えたのか。忘れないように。

基本のキホン

 ああ、ひどいったら、ありゃしない。

 なにがひどいって、このところのわたしである。 

 

 週に数日、外での仕事をはじめた今年の4月から、家の仕事の大切さに気がついていないわけではなかった。いや、気がつくというよりも、むしろ大切さを思い知らされたていた、というのに。

 

 家の仕事を大きくわければ、料理。洗い物。洗濯。掃除。本当はこれ以外にも暮らしの彩りに花を生けたり、壊れもの破れものの修繕をしたり。料理、洗濯、掃除をしやすくするための、(たとえば糠床の手入れとか、買い物だとか、ひどく汚れた洗濯物のつけおきとか、掃除機の掃除とか)、暮しの瑣事は事欠かない。そのうえ繰り返すのだから、主婦になりたてのころは億劫で、目の届いていない事ごとも少なからずあった。

 しかし同じことをしていると発見があり変化がある。

 たとえば、味噌汁の出汁の取り方は結婚した当初から現在までこんな具合に変化をとげている。顆粒だし→鰹節(花かつお)→昆布と鰹節(細削り)→昆布と煮干し。手間と味と値段を考え合わせて、昆布と煮干しに落ち着いたというしだい。出汁パックの買い置きもしてあるが、大抵は昆布と煮干しでとっている。   

 風呂掃除もそうだ。

 さして広くない空間だというのに、掃除をしているつもりでも目のゆかない場所はでてくる。ひとによって汚れが気になる箇所もちがう。そういうことがわかってきたころ、風呂掃除は子どもたちの仕事となり、ときどきわたしが全体を掃除するようになった。

 こういった、あげてゆけば切りがない些細な発見や変化を繰り返し、暮らしの瑣事をないがしろにしてはまずい、と思うようになったというわけだ。

 こう思えたことは、わたしが四半世紀にわたり家担当の身であったことの良き点である。

 

 というのに、外での仕事を始めて。

 家とは関係のない場に身を置く緊張。仕事の覚えられなさ。面白み。週に数日とはいえ外で仕事をしながら家の仕事をする大変さ。いろいろなことが綯交ぜになって体力的にはそれほどくたびれていないのに、くたびれたと思いたかったのかもしれない。気持ちが家に向いていなかったのだろう。家のあちこちが、妙にくすんでみえる。くすんでるのは汚れているというより、なおざりに家にことに向き合っていたからだと思われます。ごめんよ。

 

 まったくねぇ、ひどいったら、ありゃしない。

 

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鎌倉の大仏。

西野 そら