西野そらの日々の事ごと

「書く」ことを暮らしのなかの一つに。日々の些事をどう受け止め、考えたのか。忘れないように。

土産のはなし

 旅行の土産を買ったり、もらったりする時期だからだろうか。

「3年生の夏休み明け、マナからお土産もらったじゃない。あれには驚いたよね」

 と、次女。どうやら小学三年生当時の思いがけない土産のことを思い出したようである。

 

 思いがけない土産のはなしのまえに、わたしのへそ曲がりのはなしをひとつ。

 土産は差し上げる立場でももらう立場でも気をつかう。

 とはいっても、儀礼的な多数にむけた箱菓子土産なんぞは、集団の場に身を置く者としてのたしなみ。言ってしまえば形式的な土産といえなくもないから、差し上げる立場であろうが、もらう立場であろうが気楽でいられる。

 気をつかうのは個々への土産だ。これまで何人ものひとから、いろいろな物をいただいておいて、こんなことを言うのはなんであるが、わたしは土産をもらうとき「へっ?」となることが少なくない。

 なんせ、たいていの場合、いただくそのときに、その人がどこかへ旅していたことを知るのだもの。土産を受け取りながら、

「ありがとうございます。あら、沖縄に行ったんだ。で、沖縄のどこに行ったの?天気は大丈夫だった?」

 突然の到来物に戸惑っていることを気づかれぬよう、差し障りのないことを訊いたりして、その場を繕うなんてことは茶飯事。

 なぜ、戸惑うのか。いまの時代どこにいてもたいていのモノが簡単に手に入る。土産物屋の品揃えに、あえてここで買わなくても。そんな気持ちにならないわけではない。こんなふうだから、旅先で友人、知人の好みと思われるモノたちに出合ったとしても、逡巡はするが結局は手に取らないのだ、わたしは。

 土産は煩わしい慣習と、思い続けてきた。

 それが、だ。冒頭の思いがけない土産の話で「あらっ」となった。

 

 マナちゃんは次女の同級生。中学生から仲良くなり、違う高校に通ういまも頻繁に会う友だち。

 このマナちゃんが顔見知り程度であった小学三年生のときに、どうしてだか次女に土産をくれたのだ。当時は思いがけない人からの土産に次女もわたしもそうとうに驚いたのだった。

 

「どうしてマナはあのとき、お土産をくれたんだろう?」

「どうしてだろうね。でもさ、旅行中にあなたのことを思い出してくれたってことだか、なんだか嬉しいじゃない」

 自分の言葉にはっとした。土産への偏見がわずかに緩む。

 

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日曜日の空です。

西野 そら