西野そらの日々のこと 

「書く」ことを暮らしのなかの一つに。日々の些事をどう受け止め、考えたのか。忘れないように。

ミライ

 小学生のわたしにとって未来といえば21世紀を意味していた。当時、大人は折にふれこう言った。

「君たちが21世紀を担っていくんだよ」

 へえ、わたしたちが担うんだ、21世紀とやらを。こんな具合にわたしには21世紀も未来もちっともピンとこなかった。

 たとえば小学4年生のわたしであったら、26年後にくる21世紀は、はるか彼方。社会がどう変化しているのか想像もできなかったし、もっといえば自分が大人になっている姿さえ思い描けなかったはずだ。

 その未来が現在となったいま、これまでを思い返せば日々を過ごすというよりは、日々がどんどん過ぎていった感がある。特別な夢とか目標とか希望をもたずとも、朝になり夜になりまた朝はくるのだから、無自覚に大人枠へ移行し、いまも続いている。

 なるようになったのか、なるべくしてなったのか。わからない。

 とはいえ、それなりに人生の荒波もあって波に乗れたり、さらわれたり。ときには夕凪をブカブカ浮いたりしながら、はるか彼方と思っていた未来は未来でなくなり、わたしは21世紀を旅先のハワイで迎える。お腹には次女がいた。

 そしてさらに、21世紀を迎えたあの日から17年が過ぎようとしている。

 これから先のことはわからないにしても、小学生だったわたしに言ってやりたい。

 大人になったあなたは、まずまず楽しくやっているよ。

 

 ところで、考えてみると「未来」という言葉には好転とか前進とか希望を持たせるイメージがある。未来へ平和や暮らしやすさを繋げる、それが今を生きる者の役目だと。

 そういえば小学生のときに想像した唯一の未来は過去の戦争を教訓とし、誰もが戦わず平和に暮らしている世界であった。が、思い描いた良き世界にはなっていない。

 戦いはなくならないどころか、新たな戦いがはじまっている。そのうえ未来に向けての改革や進歩が、人としてのあり様を変えてしまってもいる。

 きっと誰もが描く未来は良き世界であるだろうけれど、良き世界のあり方はひとつでなくなっているのかもしれない。

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パプリカ、白瓜、オクラ。

これから糠に漬けます。

西野 そら

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