西野そらの日々の事ごと

「書く」ことを暮らしのなかの一つに。日々の些事をどう受け止め、考えたのか。忘れないように。

すいません、すいません。

 「すまない」のくだけたかたちの「すいません」は、感謝の意、謝る意があり、誰かへ呼びかけるのにも使えるという重宝なことばだ。

 かく言うわたしも、いろいろな場面で安易に「すいません」を連発してしまう。しかしあるときから、この重宝な言葉がしっくり来なくなってきた。

 感謝の意で使うなら単刀直入に「ありがとう」、謝るのなら「ごめんなさい」がよかろうと思うようになったのだ。

 とはいっても散々使ってきた言葉だから、つい口を衝く。それだから「すいません」のあとに「ごめんなさい」「ありがとう」の置き換えの言葉を引っ張ってくるようになった。たとえばこんな具合。

 エレベーターで、行く階のボタンを代わりに押してくれたおひとへは、

「すいません、ありがとうございます」

 道を訊ねるために見知らぬ人を呼び止めるときには、

「すいません、恐れ入ります」

 狭い道ですれ違う人と肩が軽く当たったり、当たりそうになったりしたときには、

「すいません、ごめんなさい」

 礼をいうのにも、呼びかけるのにも、謝るのにも言葉を重ねることになるが、こうやってわたしは「すいません」からの脱皮を図ろうとしてきたわけだ。

 いまでもたまに「すいません」とやるけれど、口にする回数は以前よりずっと少ない。

 

 外国では、非を認めたことになり不利益だからという理由で、安易に謝罪の言葉を言わないらしいけれど、日本もそんな風潮になりつつある。「すいません」には感謝の意もあるというのに、謝る意味合いが強くなっているのか、わたしもよからぬ言葉として捉えるようになっていった。これがしっくるこなくなった一番の理由。

 

 しかし考えてみると、少し前までは、すれ違いざまに肩が触れ合えば「すいません」。扉を押さえてくれているひとには「あいすいません」。見知らぬ人との潤滑油的な言葉であったのにちがいない。もっと言えば、潤滑油のおかげで世の中がギスギスしていなかったと思われる。

 狭い場所ですれ違うときなんぞは「ごめんなさい」ではなく、むしろ「すいません」がしっくりくるから使うが、無言で通り過ぎる人も少なくはなく、空恐ろしい。 

 お互い様という心持ちには角立つ空気が生じにくくなるものだし「すいません」くらい言ったとしても、決して不利益なんぞにはならないと思うのですが。

 

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国分寺市 の遊歩道「お鷹の道」

遊歩道沿いの水路にあるミニチュアの水車。

西野 そら