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西野そらの日々のこと 

「書く」ことを暮らしのなかの一つに。日々の些事をどう受け止め、考えたのか。忘れないように。

風景

 吉祥寺駅前の交差点は、たいてい歩道も車道も混み合っている。夫とわたしは行き交う人の波をすり抜けながら駅近くの駐車場に向かって歩く。

 建ち並ぶビルの看板、車道をゆるりゆるりと進む車、車、車。そして行き交う人、人、人。言ってしまえば看板のかたまり、車のかたまり、歩道を歩く人のかたまり、全体的な風景が広がるのであった。

 ところが。

 わずか数分後、車の助手席に座るとこの同じ場所が、全く違う風景に見える。

 すぐ横の歩道を歩く人、すれ違う車のドライバー、個が見えてくるのだ。

 楽しいことを話しているのだろうか。笑いながら肩を並べて歩く中年の男女。考えごとをしているかのように、道路の一点を見つめたまま信号待ちをする若い女性。ビルの上に広がる空。

 ほんの少し立つ場所が異なるだけで、ほとんど違う世界が見えてくる。

 

 こんなことは、ずっと以前から知っていた。

 たとえば、駅のホームで電車を待つわたし。線路を挟んだ向かいのホームに立つ人はかたまりで映る。けれど、先にこちらの電車がきて乗客として車窓からホームを見るや、個人が気になるという、あれもそう。

 

 視点を変えるとものの見え方が変わる。

 これはよくいわれることで、視点を変えるとは、立場を変えるということでもある。つまり自分以外のだれかの立場に立ち、ものごとを見るということ。

 とはいえ、他者の立場であるのだから見えるものはあくまでも想像の産物。見当違いのことも少なからずあるだろう。

 実をいえば、ここがわたしにはよくわからなかったところでもある。想像ならば、結局は自分本位の想像になるまいか。

 しかし、このよくわからなさが、フッと影をひそめた。 

 他者の見るものを正解とするなら、正解を求めるために他者の立場に立つというのではないのかもしれない。ともかく視点を変えてみる。自分の見方が全てではない、そのことを知る。これが肝要なんじゃなかろうか。 

 吉祥寺からの帰り道、車窓から見た風景は、わたしにこう思わせるのだった。

 

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吉祥寺でもとめた

マーガレットハウエルのブラウス。

西野 そら