将来のわたしはどうなっていたいか。このところ、こんなことを考えている。
気がつけば半世紀以上を生きてきた。そんなわたしが、将来ということばをつかうのは頓珍漢かもしれない。しかし、この命が終わらなかったとして、向こう十年でわたしはなにをしたいのか、なにができるのか。
将来の夢や仕事を考えた若かりしころと同じように、いままた、まじめに考えている。
数年前のことだ。
「自分の食い扶持ぐらいは自分でまかないたい」
こう言ったのは友人のYさん。なるほど、そういう考えかたもある。
当時Yさんは二人の小学生の母であった。子どもたちと過ごす時間を増やしたいからと、会社を辞めてひとりで起業した。立ち上げた当初は、会社勤めをしていたときよりも多忙だったそう。全てをひとりでやるのだから、その大変さたるや想像に難くない。
子どもと過ごしたいがための起業であったけれど、Yさんは子どもといるために仕事をしないという選択肢はなかった。理由は前述の「自分の食い扶持……」というあれだ。
もちろんYさんは専業主婦を否定してなどいない。ただ単にYさんはそうしたいということ。
わたしは四半世紀近く家のことを担当してきた。家、家族のことをすることが、はたらくこととわたしは考えている。
とはいえ、長女が4月から社会人になり、いよいよ自分の食い扶持を稼いでくる。
子どもが仕事をする年齢になったことで、Yさんの言葉を思いだした。わたしも自分の食い扶持ぐらい、という気持ちが湧き立ち、自分の将来を考えはじめたというわけだ。しかしだからと言って、たちどころに仕事とは結びつかない。
わたしはなにがしたいのか。なにができるのか。食扶持ということを考えれば収入を得なければならないけれど、はたらくことと収入を得ることを繋げてしまうと立ちゆかなくなりそうな気もする。
はたらくということは役に立つという意味もある。ともかく、これまで続けてきたことを手放さず。自分自身にがっかりしないように。
半世紀を生きてなお、みずからの将来がどう変化してゆくか、期待で胸が少しばかり膨らんだり、不安で気持ちが沈んだり。どうしてなかなか、忙しない。
1月29日にオープンした
都立多摩図書館へ行きました。
雑誌と子供の本の図書館。
西野 そら