西野そらの日々の事ごと

「書く」ことを暮らしのなかの一つに。日々の些事をどう受け止め、考えたのか。忘れないように。

走から徒へ

 週末ランニングをやめた。

 最後に走ったのは、7月最初の週末。

 この時点では「体調が回復するまでの休み」のつもりだった。しかしその後、疲れがめまいへとつながり、休み期間の延長となった。

 受診したのは、7月最後の週。

 休みのつもりでいた週末ランニングがやめるに至ったのは、そのときの医師にこう告げられたからだ。

「50歳を過ぎたら、走らないほうがいいですよ。運動は必要。だからね、歩けばいいんです」

 じつをいえば「週末は走る」という自分自身との約束を手放したくなかった。走ることが楽しいからというのではない。事も無げに6年以上週末となると走る夫に「続ける」ことのつよみを感じていたからだと思われる。ああ、思われるなどと遠回しの言い方はやめよう。

 歳を重ねるごとに「継続は力なり」の肝要さが身にしみてくる。とはいっても、難しさもわかるから、あれもこれも継続というわけにもゆかず。せめて自分自身との約束ぐらい手放さずにつよみにしたい、と考えているのだ。志向といってもいいかもしれない。

 走りはじめてから3年。その時間に見合った分の体力がつかなかったところをみると、わたしは「走」向きではなかったのかもしれない。それでも、休みと決め込んだのは、なによりも「続ける」ことを断念したくなかったからにほかならない。

 にもかかわらず、医師の毅然とした「走らないほうがいい」は目から鱗。「それならば走るの、やめよう」

 晴れ晴れしいほどにきっぱりと。週末ランニングの終了とあいなった。

 

 走から徒へ。

 それまでも隣駅ぐらいの距離ならば歩いてはいた。ただ、週末走る分の運動量をまかなうとなると意識的に歩かないとおいつかない。いまでは自転車で20分のところにある両親の家にも、歩いてゆくといった具合だ。

 しかしながら。

 走と徒のスピードの差、つまり同じ距離にかかる時間の差は如何ともしがたい。わたしはどちらかといえば早歩きであると思うが、それでも進まなさが焦ったい。何度も走り出したい衝動にかられる。

 長い距離を歩きたい、されどそればかりに時間をとられるのはいただけない。時間をとるか、距離をとるか。

 

 そうだ。

 8月は暑さもあって、思うように歩けず、自宅ヨガを本格的に再開した。自宅ヨガは、やったりやらなかったりの時期があるものの、10年以上の関係。無理をせずとも続く関係が、わたしにもある。

 

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以前に通ったお花の教室で知った、風船唐綿。

昨日、花屋でみつけました(薄緑色の花)

黄色い花はスプレーマム。

教室はやめたけれど、花を飾ること、

これも、ほそーく続いています。

西野 そら