西野そらの日々の事ごと

「書く」ことを暮らしのなかの一つに。日々の些事をどう受け止め、考えたのか。忘れないように。

中途半端

 いまこうしてパソコンの前に座っているわたしの短い髪からは、汗が滴り落ちている。

 夏前、ショートボブにしようか検討中ということをここに書いたが、あれからまもなくして刈り上げショートボブの短髪となった。

 

 ヘアースタイルの報告はさておくとして、短い髪から汗が滴り落ちるほどの暑いさなか、味噌汁をつくる回数が減ったというはなしをしたかったのだ。

 汗をかくこの時期だから、味噌汁は塩分補給になるのだろうが、こう暑いと味噌のあのコクがどうも、おもたい。

 で、簡単スープが、簡単であるのにおいしいという本領を発揮する。 

 今日は冷しゃぶサラダ。そんな日は豚肉を茹でた茹で汁(多めの料理酒がはいっている)をつかって簡単スープをつくる。茹で汁に生姜とか長ネギの香味野菜を投入し、塩胡椒をするだけ(味が足りなければ、中華のもとかなんかをたせばよい)で、そうとう本格的な味のスープができる。

 しゃぶしゃぶ用豚肉は、しゃぶしゃぶにせずとも冬瓜、ザーサイと一緒に具としてスープで食べてもまた、おいし。好みでラー油と酢を加えると辛味と酸味で、食欲不審はどこへやら。大抵おかわりをしてしまう。

 茹でる肉がなければ、中華のもとやがらスープのもとをつかえばよい。トマトとレタスの卵スープなんぞも、うちでは人気。

 

 こうして、夏は味噌汁の出番が少なくなる。

 ところが、スープが続いて、久しぶりに味噌汁をつくろうか、となった日のことだ。

 いつもなら昆布と煮干しで出汁をとるのに、昆布のはいった保存袋の隣に鎮座する出汁パックを手に取るわたしがいるのだった。

 昆布と煮干しでとる出汁は手間がかからない。時間がないわけでもない。それなのにさらに手のかからない出汁パックをつかおうとする、自分の中途半端さを思い知ったのだ。

 実を言うと、このところ「中途半端」という言葉が胸の内に潜んでいる。

 

 子どもとの暮らしを機に、家での食事はできるだけ自分でこさえようとしてきた。が、なんでもかんでも手づくりだとか有機農法のものだけをつかう、というような徹底ぶりではなかった。「できるだけ」の修飾語を伴ってのこだわりである。

 携帯電話やパソコン導入への抵抗も「できるだけ」が伴うから、散々抵抗はするものの、いつしか必要なものへと変わってしまう有り様なのだ。

 

 じつに中途半端なこだわりと抵抗のしかたではあると思うのだけれど……。 

 

 手づくりにこだわらず効率よく食事のしたくをする友人がいる。その友人の子どもが病弱かといえば、そんなことはなく、かえって元気でたくましかったりする。

 持つことを抵抗しているスマートフォンにしたって、それを使いこなして上手に人とかかわり、情報をしいれ、最短で目的地へ到着し、最安値で欲しいものを手に入れる要領の良いひとに感心もする。

 こんなふうに、自分とことなるひとを目の前にすると、頑ななこだわりと抵抗のしかたをふりかって考えずにはいられなくなる。どうなのよ、あたし。

 以前からこだわりが過ぎると、どこか宗教の匂いがしてくるような気がして、なにごとも過ぎてはまずい、と考えてきた。そう思うことは自分を信じて貫き通す強さのなさなのかもしれないとしても。それだから、なにごとにおいてもどこかで妥協点をみつけているようなところがある。

 

 みずからを天邪鬼なんていうほど、わたしは天邪鬼でないことを気づかせてくれた夏の味噌汁。

 

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夕飯の支度をしているとき、

流しから振り返ると居間がオレンジ色に。

大急ぎで撮った昨日の夕焼けです。

西野 そら