西野そらの日々のこと 

「書く」ことを暮らしのなかの一つに。日々の些事をどう受け止め、考えたのか。忘れないように。

昔も今も

 ある日。

 ドラッグストアに行く。

 流さないトリートメント(娘たち用)、食器用洗剤、歯磨き粉をカゴに入れてレジに向かう。

 二つある列のうち、次に順番となる少年の後ろに並ぶ。買い物カートより頭一つ分高い背丈。大人の姿は見当たらないが、買い物カゴの中身からして一人ではなさそうだった。

 ところが同伴の大人がこないうちに、少年の番になる。彼はそこにいるはずの大人の役目を果たすべく、しごく自然に買い物カゴをカートからレジ台に移そうとした。が、如何せん背と力が足りない。カゴを持ち上げようとしてもほんのわずか持ち上がるばかりで、カゴと一緒にカートが動いてしまう。

 悪戦苦闘をする少年を前に手を貸したい気持ちははやるが、わたしは見守る。すぐに手を差し延べないのは、少年を見くびっていると誤解をして欲しくなかったからだ。

 

 しかし、どうしても動いてしまうカート。わたしにとっては「とうとう」という感覚であるが、少年には突然と感じたかもしれない。わたしはカートを押さえた。無論、カゴを取りやすくするためであるけれど、少年は盗られると勘違いしたらしい。

 一瞬怯むも、わたしを睨みカートを自分の方に引いた。

「あら、余計なことして、驚かせちゃったかしらね」

 わたしが言うのと、レジ係が少年のカゴをレジ台に移したのと、少年のお母さんがもどってきたのがほぼ同時であった。

 レジ係はわたしの老婆心をわかっているだろうが、少年の母さんには……。

「まあ、ありがとうございます」 

 こう言ってくれはしたものの、どこか訝し気な面持ち。

 ついつい手を貸したが、少年を驚かせてしまった詫びも合わせて、ことの顛末を伝えた。嫌疑が晴れたかどうかはわからないにしても、身の潔白を証明したかった。

 

 難儀な世の中だ。

 

 だが、ふとこうも思った。

 こういうことって今に限ったことではないのかもしれない。思い返せばわたしも子どものころから見ず知らずの大人に助けられてきたのだ。きっと助けられたその時は訝し気な目を顕にして礼を言っていたのにちがいない。今も昔もかかわらず、知らない人には身構えるものだもの。

 経験から、たいていの大人は子どもに手を差し延べるものと刷り込まれてきたのだ。身の潔白の証明などいらなかった。

 世の中が変わったのでなしに、こんなふうに繰り返されてゆくものなのだろう。