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西野そらの日々のこと 

「書く」ことを暮らしのなかの一つに。日々の些事をどう受け止め、考えたのか。忘れないように。

トホホな話

 咄嗟にことばがでてこない。そのことで家の者からしょっちゅう失笑される。

 たとえばNHKの朝の番組「アサイチ」のことをはなしたかったとする。

「テレビの朝の番組、ほらNHKの……」

 相手が「アサイチ」を知っていれば「アサイチ?」となり話を進められるが、わからないと、さらなる説明を重ねる。

「ジャニーズのあのグループ。なんだっけ。えーと、日曜日の昼間、料理番組をやってる、あのひと」

「あぁ、国分太一?」

「そうそう、国分太一

「じゃ、NHKじゃなくてTBSの『ビビット』でしょ」

「そうじゃなくて、国分太一と同じグループでジャニーズっぽくないひと」

「井ノ原?」

「そ、それそれ、イノッチ。イノッチが司会の朝の番組よ」

「アサイチ?」

「ああ、アサイチ、アサイチ。……あら、なにを話そうとしたンだっけ?」

 話にならない。と、なかば呆れて笑われるという始末。

 肝心の固有名詞は一向に思いださないというのに、そのまわりの要らぬ情報ばかりがぐるぐるしている。ひどいときには数時間後、突如として思い出したりするのだから本当にいやになる。

 

 ことほどさように、会話が情報交換の手段のひとつだとするなら、わたしの情報は相当お粗末で、もはや情報になりえないかもしれない。

 うちの近所に数店ある蕎麦屋やラーメン屋は、「小学校のまえの蕎麦屋」「ケーキ屋の隣の蕎麦屋」「美味しくもまずくもないラーメン屋」と、店名でなしに場所の特徴やら味の特徴が店名と化している。家族内で通じるとはいえ、これでは友人との会話は成り立たない。

 店の説明にしても店名でなしに場所の説明からはいるものだから、話は長くなるわ、伝わらないわで、どうしても尻つぼみの会話と相なる。

 それでも付き合いが長くなれば、わたしがヒントを出して友人から固有名詞やらことばを引き出すコミュニケーション方法も笑いとともに展開されてゆくが、ここまで寛容な関係になる道のりは、ながい。

 ああ、じきに出会いの季節がやってくる。

新しく出会うひととの会話はそうとうに緊張を強いられるうえ、この記憶力の危うさに落ち込む日が続くのにちがいない。

 

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うちから見えたいつかの空。

だれかに教えたくなるような空でした。

西野  そら