西野そらの日々のこと 

「書く」ことを暮らしのなかの一つに。日々の些事をどう受け止め、考えたのか。忘れないように。

磨く

 「楽しいことないかな」

 高校生のわたしはいつでもこんなふうに思っていたのだった。あのときの「楽しいこと」がなんであったのか自分のことながらわからないけれど、思い当たるのは結局のところ楽しくないこと以外ということか。

 楽しくないこととはつまり、勉強と日常。

 歯を磨き、顔を洗い。食事をとり、学校に通い、申し訳程度に机に向かい、風呂につかり、そして寝る。このすべてのことのまえに「ただ単に」がつく。繰り返すことに想像も思考もせず、暮らしのほとんどをなおざりにすませていたのだもの。

 「楽しいこと」とは日常の劇的な変化だったのかもしれない。些細な変化でなしに劇的な変化……。

 

 50歳を過ぎたいま、繰り返すことの大切さと面白みが暮らしの軸であるし、ましてや劇的な変化などもとめてはいないけれど、それでもふとしたときに気持ちは沈む。

 

 洗濯したタオル、衣服が青空のもと水分を蒸発させるべくたなびき、ひらひらと乾いたそれらを折り目正しくたたみ、それぞれの定位置に片付けるのに要した時間と、再びそれらを洗濯カゴの中に見つけるまでに要する時間の間隔の短さに愕然とする日。

 昆布を小さく切ったり。煮干しのはらわたをとったり。野菜を洗って切って。魚や肉を煮たり焼いたり炒めたり。家族の胃を満たすためだけでないご飯をつくる。かたづける。そしてまたつくる。1日3食とはいえ、食べるタイミングがずれて、つくる回数、片付ける回数がふえてゆく日。

 朝起きて歯を磨き顔を洗う。化粧水、クリームを馴染ませる。お風呂あがり。皮膚から水分が失われ、どんどん萎んでゆくようなあの感覚に抗うべく、身体中に保湿クリームを塗りこむ。さっき上げたんじゃなかったかしらと思うほどの時間の間隔で布団を敷く日。

 生きるとはこういうことの繰り返し。

 

 「やったばっかり」

  やけに繰り返しに引っかかる日というのはあるものだけれど、日々のルーチンには工夫が加わり、ささやかに変化をとげていることを確かにいまのわたしは知っている。

 

 実はすこしばかり、くたびれていた。 

 くたびれていたから、汚れの目だってきたやかんを磨きたくなったのかもしれない。力を入れずともあっという間にやかんをピカピカにしたのは住友スリーエム、スポンジ研磨剤805。

 ゴシゴシ時間をかけて磨いていた時代はずいぶん前のことだ。

 

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やかんにわたしの姿が写ってしまいました。

ピカピカさがいまひとつ伝わっていないような。

西野  そら