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西野そらの日々のこと 

「書く」ことを暮らしのなかの一つに。日々の些事をどう受け止め、考えたのか。忘れないように。

一生もの

 シルバーの腕時計を買ってもらったのは中学3年の修学旅行まえ。

 皮製のベルトのような留棒を穴に入れるタイプでなく、三つ折れタイプの留め金だ。オトナが着けるあのタイプ。

 腕時計を着けたわたしの手首はにわかにオトナの手首にかわった。

 腕時計のつけ方は文字盤を手首の内側にするのか外側にするのか。鏡の前で時計をクルクル回してはオトナ度をはかったりなんぞして。クルクルの結果文字盤は外側と決めたものの飽きずたらず、着けたり外したり。まったくもってオトナの欠片もない中学3年生なのであった。

 

 しかし、そんなオトナ気分を味わえたのはほんの束の間である。

 ごくたまに共感してくれるひとと出会えるのだけれど、腕時計を着けていると、手首がジンジンしてくるのだ。このジンジンがはじまると居ても立っても居られなくなる。まるで他人の腕をぶら下げているかの如く、左腕の存在が際立ち時計を外すまでジンジンが続く。ジンジンジンジン……。

 たちまち腕時計は抽斗のなかの存在となり、わたしは腕時計を必要としないオトナになった。

 

 およそ20年まえ、夫が海外出張で行ったロサンゼルスから帰ってきた日のはなしである。 

 旅行鞄の中から箱を取り出した。目をつけていた腕時計と免税店で出会ってしまったのだそう。

「日本で買うより全然安いんだよ」 

 全然安いというその値段は金額だけをみれば全然安くない。しかし夫には価値を見出せる金額であったというわけだ。安価なものがとなりにあっても違いがわからないであろうわたしに、言い訳するようにこうも言った。

「ある程度の年齢になったらそれなりのものを身に着けないとね。まあ、一生ものだから」

 ある程度の年齢とはいくつ?それなりとは?実はよくわからない。にもかかわらず漠然とそうかもしれないと思えたのだった。

「一生ものならもう時計を買わなくてすむし。まあいいか」 

 その翌年、夫はわたしの誕生日に、

「ある程度の年齢になったらそれなりのもの身につけないとね。まあ、一生ものだから」 

 かつて聞いた言葉を添えて四角い箱を差し出した。中身は腕時計。わたしが腕時計を着けないことを夫は知っている。が、ここぞというとき用らしかった。

「ハイハイ、ここぞというときね、ありがとう」

 

 わたしの誕生日のあとしばらくして、夫は自分用に新たに腕時計を買ってきた。それも以前と文字盤が色違いの時計。 まさか誕生日プレゼントは布石ではあるまいな。

 

 わたしは「一生もの」の意味を誤解していた。

 辞書によると「一生もの」とは生涯使える良品とある。一生にひとつとは記されていなかった。

 

 

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新潟の海です。海を見ると水平線の向こうがわに

思いがゆきます。

こういうのはずっと変わらない感情だけれど、

一生ものとは言わないですね。

西野  そら