西野そらの日々のこと 

「書く」ことを暮らしのなかの一つに。日々の些事をどう受け止め、考えたのか。忘れないように。

『飛ぶ教室』

 子どものころから中々どうして距離が縮まらない海外文学であったが、このたびドイツの児童書と思いがけない出合いをした。

 キルヒベルクにあるヨハン・ジギスムント高等中学の5人の寄宿生と彼らを取り巻く人人のクリスマス休暇前の数日の話。

 

 ここでは本編の伏線の要素をそなえた「第2のまえがき」に触れることにする。

 ケストナーは、「どうしておとなはそんなにじぶんの子どものころをすっかり忘れることができるのでしょう?そして、子どもは時にはずいぶん悲しく不幸になるものだということが、どうして全然わからなくなってしまうのでしょう?」と問いかけ、子どもたちに向かって、「子どものころをけっして忘れないように」と伝えている。

 さらに「人生ではなんで悲しむかということはけっして問題ではなく、どんなに悲しむかということだけが問題です」とも書いている。

 まえがきだけでは、ケストナーが言わんとしていることがいささか概念的でピンとこないが、物語を読み進めてゆくと思いあたってゆくというのか、登場人物たちがどういうことかを教えてくれるのだ。   

 

 だれでも、身に起きたことと向き合うときは孤独である。向き合う内容がなんであれ当事者にとっては、ときには深く悲しいこともある。後にだれかに助けられたり救われることがあるとしても、まずはひとりでその孤独と悲しみに耐え、乗り切る方法を考える。あるいはじっと耐えてやり過ごしている。

 困難なことがあるたびにそこから逃げ出してしまう自分を思い悩む、体の小さなウリーはそのことを教えてくれるひとりだ。

 思い悩んだ挙句に考えついた策はとんでもないことであったが、ウリーの友人から事情を訊いた正義先生はウリーのしたことをある意味では、認める。

 どれほど子どもであっても、言い分を聞く正義先生の公平さ。このことは大切だとしみじみ思う。わたしにはこれが難しい。つい経験を振りかざして、子どもたちのことばを右から左へと聞き流してしまうのだから。

 

 首席のマルチンは家が貧しくクリスマス休暇に旅費が足りないことで帰省できなくなるところを正義先生に救われるエピソードがある。ここで正義先生はこう描写されている。

「正義先生は驚いてそばに立っていました。はやまって慰めを言ってはならないことを彼は知っていました。」

 

 はやまって慰めを言ってはならない。ここが肝要であることは、ぼんやりとわかる。早まることがいけないのか。慰めを言うことがいけないのか。

 結果的に先生はマルチンに旅費をプレゼントする。大人であるからお金はある。

 ただし、持っているからあげるのではなく、マルチンの独りで悲しみに耐える姿勢を尊重しているからプレゼントをする。それは決して慰めではないということにつながるのかもしれない。 が、本当のところは今もよくわからない。 

 

 本書は児童書ではあるが、子どもを経験した大人だからこそ、ケストナーの言葉に厳しさを感じつつも共感を味わえるのにちがいない。子どものころに読んだら、わたしはどう感じただろうか。

 ふとそんな思いが湧き上がる。

 

 

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ドイツの画家ワルター・トリヤーの可愛らしい表紙。

ケストナーの子どもの本の挿絵を全て描いたのだそうです

西野  そら