西野そらの日々のこと 

「書く」ことを暮らしのなかの一つに。日々の些事をどう受け止め、考えたのか。忘れないように。

乗り物、じゃない。

  今週のお題「読書の夏」

 

  箒(ほうき)をみて、跨ぎたくなったのはいくつまでだったろうか。
 そもそも家の座敷用長柄箒が姿を消した時期さえ思いだせないが、確かにわたしはそれに跨っている。
 幼いころに見たテレビ番組の「コメットさん」だったか「魔法使いサリー」だったか。
 ともかく、魔法の箒を真似た。テレビのに比べ、家のはうんと和風だというのに、跨るそのときだけはハイカラな乗り物にみえていたのにちがいない。
 まったく魔法の箒ときたら、どれほど子どもの心をくすぐるのだろう。
 小学生で『ハリー・ポッター』と出合った長女。まずは文章から空想を広げ、後に映画で想像以上の世界を見る。魔法の箒というよりは、『ハリー・ポッター』の魔界に夢中なのだが、話をより面白くする魔法の小物に惹かれないわけがない。映像で見ればなおのことだ。そんな自ら操りたい小物のひとつが、クィディッチ用箒であった。

 クィディッチとは箒に跨り空を飛びながら空中のリング状のゴールにボールを入れるゲームのこと。このクィディッチの気分を味わいたいと長柄箒を欲しがった。結局、願い叶わず傘に跨っていたのだけれど。
 

 さて、箒飛行といえば家々の様子を垣間見ることができる低空飛行が思い浮かぶ。
 ほら、学校でいばっているクラスメートが思いがけず家では兄妹の世話をする優しい子だと知る、あれ。そうしてそれぞれに事情があることを知る。事情ということばを使わないとしても子どものころから、なんとはなしに見えていることだけが全てではないとを学んでいるのだ。「あの人はいい人、このひとは然にあらず」とはできないのだと。

 箒飛行のよいところはまだある。超低空飛行をしていたかと思えば高度を上げて、星や月も間近にみられる。あぁ、やっぱり魅力的。
 移動手段として考えれば、一瞬でどこにでも行ける『ドラえもん』の「どこでもドア」がそうとう魅力的ではあるけれど、しかし、風景を見られる魔法の箒には、どうしたってかなわないのじゃないかしら。
 とはいえ。魔法の箒さながらの和風長柄箒も代用傘もいざ跨ってしまえば、たちまち魅力は半減する。いや、半減どころではない。魅力は消失する。素敵な馬車がかぼちゃにもどってしまうように、魔法の箒も本来の長柄箒や傘にもどるのだ。
 やはり……、移動できないという欠点は如何ともしがたく、乗り物になりえないのかもしれないなぁ。

 

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テーブル用箒は相当

年季が入っています。

西野  そら