西野そらの日々のこと 

「書く」ことを暮らしのなかの一つに。日々の些事をどう受け止め、考えたのか。忘れないように。

押す?押さない?

 週次で日用品を調達するドラッグストアは、道路の向こう側に位置する。

 この道路、行き交う車はさほどないにもかかわらず、店の前にドンと信号機がそびえている。それも歩行者が「渡ります」と意思表示をする押しボタン式のあれだ。

 目前の店。車が来る気配はない。信号機はむろん赤。

 意思表示、つまり信号機のボタンを押して待つべきか、そんなことせずにさっさと渡るべきか。いつだってほんの瞬間、胸の奥がざわつく。

 

 実をいえば、数年前までは律儀にボタンを押していたのです。

 ところがある日。

 小学校のまえの交差点にさしかかろうかというとき、隣を歩く友人が赤信号には目もくれず、けれど悪びれずに歩みを進めた。

「ちょっと、赤よ」と慌てるわたしに、

「車、きてないじゃない」

 と友人。

 そりゃそうですけど、小学校のまえである。近くにはマンションも建ち並ぶ。どこの窓から子どもが見てるやもしれず、わたしには信号無視なんぞ到底できない。

 青信号になるや、走って友人の後を追う。

「でもさ、小学校のまえぐらい待たないの?」 

「まあ、子どもがいればそうするけど、いまは車も子どもいなかったでしょ?それで待つ意味ある?」

「……、ルールだから」

「交通ルールは事故を起こさないためのもの。車がいないんだから事故なんて起こりようがないじゃない。合理的に考えなきゃ」。

 ふーん、合理的ねぇ。信号を待つ、たった数十秒が無駄なのかしら。

 ということは、まさか車の運転でも、人と車がいなけりゃ信号無視しちゃうわけ?

 よかった。それとこれは別の話という。本当は同じ話にちがいないのだけれどねえ。

 まあ、友人の言い分もわからなくはない。けれどわかりたくもない、とも思うのだ。 

 子どもとの暮らしがはじまる以前まで遡れば、わたしとて友人と同じであった。

 されど子どもの目は、どうしたってわたしを道徳的にさせた。わたしがそうであることが子どもを守る手立てのひとつであったのだから。

 

 件の信号機に話をもどそう。

「渡ります」と意思表示をした日は、車1台通らない車道をまえに馬鹿げているかもと思いつつ、青信号で堂々と渡る。そうしない日には良心の呵責を感じつつ赤信号をそそくさと渡る。意思表示するかしないかは、状況とタイミング次第。

 青信号で渡るのが正解。それでもなぜか釈然としないのは、合理性になびいたからだろうか。

 

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毎夏、よしずを2枚立てかけます。

よしず越しの景色は味わいがあります。

sora