西野そらの日々のこと 

「書く」ことを暮らしのなかの一つに。日々の些事をどう受け止め、考えたのか。忘れないように。

帰り道

 ことしも居間のカレンダーが最後の一枚になった。これはわたしの予定表でもあり、最後の一枚にも、ポツポツと用事が埋まっている。

 隔週の木曜日に通う講座。十年ぶりに会う友人との約束。若い友人のダンスの発表会。次女のダンス部ライブ、ライブ終了後母さまたちとのお疲れさま会を兼ねた忘年会。近所の友人と出かける約束。病院、美容院、整体。ほかにわたしが知っておくべき家族の予定も記してあるが、友人や仲間のなかに身を置く予定は、いまのところこんな具合。

 ひとつひとつの用事が終わった帰り道、わたしはどんなわたしでいるだろう。カレンダーを見て、ふと、こう思う。

 帰り道。友人や仲間とわかれ、ひとり家にたどりつくまでのこの時間が、わたしにとっては厄介な時間になることが少なくない。それまでの賑やかな時間からひとりになった途端、少しばかりの開放感とともにわたしの心はザワザワしはじめる。

 このザワザワの正体がなんであるのか、最近になってようやくわかってきた。どうやらわたしは、ひととの関わりでさしたる失敗なんぞしていないのにもかかわらず、重箱の隅を突くようにみずからの反省点を見つけだしているみたいなのだ。おそらくは、ほとんどのひとが感じていないだろうと思われることに、「あんたのあのやり方はどうなのよ」とひとり突っ込む。これがザワザワの正体。そしてこのザワザワでわたしはそうとうくたびれてしまう。つまりわたしは徒らに、みずからをくたびれさせていたのだ。

 そも、わたしはモノゴトが荒立つのを好む質でない。厭味も皮肉な笑も然り。それに誰かを目の前にしているときにはどの道、気を遣うのだ。それだからそんな自分を信じてあげなくちゃ、まずいじゃない。

 やっと、こう思えるようになってきた。

 とはいっても、思考には癖があるようだから、この気づきがうまい具合にわたしの思考に変化をもたらすかはわからない。でもしかし、帰り道のザワザワが少なくなってくれることを、ひそかに期待している。

 

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長女が持って帰ってきました。

知り合いの頼まれごとを手伝い、

バイト代のかわりに頂いた花束ですって。

居間にはいると花の香りに包まれます。

西野 そら

あの日

 さもない毎日が過ぎてゆく。1日家から出ない日、1日にいくつかの場所へ出かける日。予定があろうがなかろうが、1日は24時間で、そのあり様はかわらない。その日に何をしたのかなんてことは、おしなべて忘れてゆく。

                                        たとえば、カレンダーの2016年11月9日の欄には、午後1時20分に整体。伊勢丹袴レンタル開始、と書いてある。長女の大学卒業式の袴を借りるためだ。時間は当日の成り行きでと考えていたから記していない。ところが、長女のアルバイトの時間とわたしの整体の時間を突き合わせると、午前10時半には伊勢丹にいなければならい。この計算が前夜にやっとついたのだ。それだから、朝6時に布団を出た時から忙しなさが付きまとうのであった。

 いつものとおり、高校生の弁当と家族の朝食づくりからはじめるが、洗濯機を3回まわし、古紙を4階のうちから1階の入り口まで出しにゆき、簡単に部屋を片付け、身支度を整えたら出る時間ギリギリ。電車で2駅先の伊勢丹へ、長女と向かう。

 店では着物と袴選びが予想外に手間取り、整体の予約時間が迫ってくる。逸る気持ちを抑えつつ、卒業式当日の着付け時間と美容院の手筈をととのえ、急いで帰宅。鞄に整体用のジャージを押し込んで、再び駅へ走る。

 行き先は朝とは違う線の2駅先。駅から整体まで走るも5分遅れる。1時間強の施術。帰りがけにいつものスーパーマーケットで買い物をして午後4時まえ帰宅。そしてようやくこの日はじめての食事にありつく。

 用向きは何てことはないが忙しない1日だった。けれど、きっといつしか忘れてしまう11月9日の1日。

 

 あの日も、こんなふうだった。

 午前中から近所の友人2人と子供会のための買い出しにでかけ、お茶を飲んで帰ってきたのが、午後2時半ごろだった。ここまではいつもと同じ。きっといつしか忘れてしまう日だったろうに……。帰宅後まもなくの地震で、忘れられない「あの日」になった。2011年3月11日。忘れっぽいわたしでも、この日にちは忘れない。 

 

 しかし、さもない毎日といってもだ。

 ある1日が、後日、日にちまでは覚えてないにしても「あの日」となることも少なくない。運命。まさに、ベートベンの運命の出だし「ジャジャジャジャーン」というように。

 未だ来ない先の日に、今日の事ごとを振り返る日があるかもしれず。こう考えると日々をうかうかと過ごしてなどいられない。いやいや。うかうかしていてもしていなくても、「あの日」に、なるときはなるのにちがいないんだ、きっと。

 

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近所にある池です。

落ち葉で水面が覆われていますが、

落ち葉の下には少なくない数の鯉がいます。

水中は陽が入らなくて暗くなるのでしょうか。

まさか、鯉たちも紅葉を楽しんでいたりして?!。

西野 そら

人間ウォッチング

 電車に乗る外出では文庫本が手放せない。

 数日前のこと。電車に乗り込んだとたん無意識にバッグから本を取り出した自分に、はっとした。「これって……」

 

 わたしはスマートフォン片手に電車に揺られる姿がどうも好きになれない。<あれ>に向かうひとそれぞれが、異なったことをしていることはわかる。たとえばゲームするひと。ニュースや電子書籍を読むひと。仕事をしているひとだってあるだろう。それだから、<あれ>を使ってなにをしているかよりも、ただ単に向き合う姿に違和感を覚えるのだと思う。

 車両の少なからずのひとが四角い端末と睨めっこする姿は、それを操作していることで自らの殻に閉じこもり、他者(他の乗客)とは関わりたくない。とアピールしているようでもある。 

 というのに、数日前はっとしたのは、無意識に取り出した文庫本を読む姿が、わたしが違和感を覚える姿と、さして変わらぬことに気がついたからだ。そしてわたしもまた本に視線を落とすことで他者に無言の働きかけをしていたのかもしれない。

 そういえば、毎日電車通勤をしていた若かりしころは、本に視線を落とすばかりでなく、無遠慮に人間ウォッチングなんぞしていたものだ。

 あの女性(ひと)、おしゃれ。ああいう靴はこういう服に合わせると素敵にみえるんだぁ。今度はあんな髪型にしてみようか。見ず知らずの人からおしゃれのヒントをみつけたり。ときには、ドア付近に立つ集団の賑やか会話で、思わず一緒に笑いそうになったり。

 車両内はそれなりにざわつき、他者といえども何とはなしに、目の端に互いの存在を確認し合っていたよう気がする。

 このごろは友人同士やカップルと思われる男女でさえ、スマートフォンに目線を落とし、ほとんど無言。たまに話し声が聞こえても英語、韓国語、中国語などの外国語。英語が聞こえてきた日には、できもしないのになぜか、訳そうとしている自分に笑えるが、すぐさまBGMとなりやがては聞こえなくなる。

 外出はするものの、いつも殻に閉じこもったままだから、世界がひろがらないのかもしれない。ああ、他人様のことをとやかくいうまえに、わたしがもっと電車での時間を楽しもう。

 

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赤唐辛子。

料理に使ったり、ぬか床に入れたり。

重宝する香辛料。

西野 そら

12月の買い物

 早、11月も半ば。見上げれば空は高くなったような気がするものの、振り返れば、秋らしい空気が澄んだ日はあまりなかった。半袖でもおかしくないほど気温が上がったり、ニットを着込まないといられないほどに下がったり。この時期にふさわしい衣服の正解が分からぬまま、不意に寒さが訪れ、気がつけば11月半ばなのであった。

 そろそろ肌着を買いにゆく時期がくる。

 数日前。些かくたびれてきた家族の肌着を畳みながら、わたしはクリスマスのイルミネーションにきらめく街並を思い浮かべていた。家族全員の肌着は12月にする買い物のひとつである。新年とともに新しい肌着をおろすと決めているのだ。

 季節の巡りを知るのはカレンダーや天候だけでない。折々で身につけた季節の支度や決め事でもそれを知ることはできる。

 

 肌着やタオル、シーツのような、他人の目に晒されぬものたちの捨て時がひととずれているようなのだ。そも、わたしはケチな質である。

 タオルとて長年つかえば黄ばんでくる。漂白はするものの少しづつ、くすんでゆく。しかし洗濯に漂白までしているのだから、衛生面では問題ない。タオルの役目は十分果たせる。たしかにくたびれてはいるけれど、捨てるほどではないようにわたしには見える。で、結局捨てられない。

「そろそろ新しいタオルおろさない?」

 ヨレヨレを見かねた夫や娘たちが教えてくれることもある。教えるというより、あれは要望か。こうしてお役御免となったヨレヨレタオルさえ、そのままゴミ箱行きにはしない。雑巾として使いみちはある。ほんとにわたしはしみったれなのだ。

 こんな具合だから、若かりしころ(といっても30代)のわたしは肌着、ことにブラジャーなんぞの捨てどきがさっぱりわからなかった。で、遊びにきていた妹に捨てどきを訊こうと、箪笥から取ってきてそれを差し出した。妹は見るや、

「今。いまが捨てどき」

 以来、12月は「肌着を買い替える月」と相成った。

 

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今日宅配で届いた野菜。

ちょうど1年前も、届いた野菜を

載せていました。

秋野菜が美味しいからでしょうか。

西野 そら

ディーラーの営業マン、T氏

 車を買い換えた。

 車の引き渡し時。夫は運転席、営業マンのTさんが助手席、わたしは後部座席へと乗り込んで、操作スイッチ類の説明を受けている。パワーウインドウの昇降スイッチを確認するために、ちょうど窓を開けたときだった。

 運転席の窓から体長2センチほどのクロアリと思われる虫が飛び込んできた。クロ(以後この虫をこう呼ぶ)はフロントガラスに体当たりしては、上下左右に飛びまわる。熱心に説明していたTさんと静かに聞いていた夫は、突然の侵入者に不意をつかれ一瞬動きが止まった。が、そくざにふたりの手はパタパタと動いた。

 追い払われまいとするクロ。フロントガラス周りをさらに2周してから夫の前のダッシュボードに、ついと止まった。静かに手を伸ばしクロに狙いを定める夫。掌をブーンと振ったものの、クロは助手席側に一っ飛び。

 ここでTさん。手よりも効果のありそうな書類で外に出そうとするが、空振りに次ぐ空振り。

「でませんねぇ」

 Tさんは申し訳なさそうに呟いて、車の説明を再開した。その途端、またもやクロが飛んだ。再び説明は止まり、ふたりの男の眼差しがクロへ向かった。

 ほんの数分のあいだに、追い出し失敗。説明再開。クロ飛び回る。という一巡を3度繰り返したものだから、車の説明は完全に中断され、男性陣はクロの動きを注視するのであった。4度目がはじまったときはさすがに、

「連れてかえりますから、気にするのやめましょう」

 後部座席から提案したが、

「だめだよ。運転してるときに飛んできたら危ないよ」

 夫はうけいれない。

 

 この状況に業を煮やしたのか、飛び回るクロに

「こいつ、バカですねぇ〜」

 茶化しながらTさんがせせら笑った。

 ほお、そうきましたか。これまで、虫に手こずることはあっても、素早く追い出せないことを、虫がバカだからと考えたことがなかった。

 はじめて虫をバカ呼ばわりするひとを目の前にし、可笑しくなってきた。虫にたいして、こいつバカですねぇ、だなんて……。あまりにもおかしくて吹き出した。見れば夫も笑っている。

  

 しかし、車内の如何ともしがたい状況を、Tさんは虫をバカ呼ばわりにして笑いを誘い、場を和ませたのだ。もしや、あれは手だったのかもしれない。 

 車内がいろんな意味を持つ笑いにつつまれたそのとき、クロはさそわれるように外に向かって飛んでいったのだった。

 

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こちらのクロは7月に撮ったアゲハ蝶。

西野 そら

カボチャ

 テレビでは、ゾンビ、ポケモンスーパーマリオ、アリス、スーパーマンらが列をなしてはしゃいでいる。今年も渋谷はえらいことになっていた。

 うちの近所では、傷だらけの看護婦や悪魔、いま話題のピコ太郎なんぞの姿も現れなかったけれど、仮に遭遇したとしても驚かない程度に見慣れてきた、10月の光景。

 辞書をあたらなければ知らなかった本来の宗教的な意味合い(万聖説11月1日に聖人や殉職者の霊を祭る前夜祭《10月31日の夜》)や、子どもが悪魔などに扮装して近所を周り、'Trick   or treat' 'I'm  scared’と言葉を交わしてお菓子をもらう風習。そういったものとは別の、楽しむハロウィンは仮装の日と呈している。まあ、クリスマスがキリスト誕生を祝う日というよりも、サンタからプレゼントをもらう日、あるいは仲間内で楽しむ日と位置付けられているのと同じなのだな、きっと。

 

 仮装といえば、娘たちが通った幼稚園の夏季保育を思い出す。    

 夏休み最後の週の夏季保育は夏休み明けの登園につながるよう、お楽しみの4日間が用意されている。

 なかでも登園最後の日のキャンプファイヤーは、子ども、先生、保護者の全員が仮装をして集まるのだ。

 長女は3年間でピーターパン、トンボ、シンデレラ。次女は旅行の日程で2年だけの参加であったが、「魔女の宅急便」の猫のジジ、インディアンに仮装した。

 ことに長女のトンボは我ながら傑作だった。厚紙とセロファン製の羽はランドセルを背負う要領で。大きな目玉は水泳帽に貼り付けた。歩くたびに羽が揺れて、いまにも飛び出さんばかり。長女はたしかにトンボだった。ピータパンもインディアンもジジも家にあるものでこさえたけれど、十分に扮していた。

 本や映画のキャラクター、動物や虫の姿に変身した娘たちは、その姿を鏡に映してはたいそう喜ぶ。夫もわたしも娘たちの喜ぶ顔見たさに家にあるものを駆使して、仕立てたのだった。

 

 「カボチャになろうかな」

 10月に入るや高校生が呟いた。幼稚園以来の仮装をするのらしい。

「ふーん、カボチャねぇ。いいじゃない。ママがダンボールでつくってさしあげましょうか」

「あのね、いまは、そういうのじゃないから」

 どうやらいまは仮装でなしにコスプレというのらしく、衣装一式が安価で売られているというのだ。 

 結局、カボチャの案はなくなり、映画『スーサイドスクワット』のハーレクインとやらになっていた。娘が買ったのは右半分が赤、左半分が青の短パンと網タイツ。こんなのは、さすがにうちにはない。

 わたしにはよくわからない仮装だったが、わかるひとにはわかる仮装らしい。

 

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カボチャとオバケのクッキー。

このほかに、カボチャのチーズケーキと 

さつまいものチーズケーキを娘と一緒につくりました。

西野  そら

甦えらせる

 両親の家に行くと、ときおり母はミシンの置いてある部屋にわたしを呼ぶ。

 「縫い直したんだけど、おかしくないかしらね?」

 こう言って見せてくれるのは、数十年前に母が着ていた、見覚えのあるブラウス、ジャケット、ワンピースたち。

 容貌も体型も変化した八二歳の母。タンスの肥やしとなっていた死蔵の衣服を現在の好みに、自ら仕立て直し甦えらせているのだ。

 しかも昔の服ばかりを仕立て直しているのではない。数年前にもとめたものでも、たとえば襟がもう少し開いていたらスマートに見えるのに。袖が七分なら着やすいのに。というような、些細な不満を、より好みのデザインへ、より着心地の良さへと近づけるべく、切ったり、縫ったりしている。

 つい先日は、二十数年前の母の誕生日に、わたしがプレゼントしたという黄色い花柄のブラウスの直しに取りかるところだった。「このブラウス、色と柄は好きなのよ。でもお母さん、丸襟が似合わないでしょう」

 母は出番のなかったブラウスとわたしに弁明する。

「あんたがくれたんだから、何年かに一度は、袖を通してみるんだけどね」

 ブラウスを着て鏡の前に立つものの、結局は脱いで抽斗ゆきとなったようである。

 数年前、何としてもこのブラウスを着ようと、丸襟を切り取ってスタンドカラーにすることを試みたらしい。が、思い通りにゆかずそのままの状態で放置。ようやく数日前、裾を切り、切り取った布を使ってボウタイブラウスにしようと思いついたのだとか。

 甦えった服を見るたびに、わが母ながら感心する。こんなに裁縫好きだったっけ?

「自己流だけど、失敗しても時間はいくらでもあるんだから、ほどいたり縫ったりするのよ。そうしていくうちに方法が見つかって上達してゆくの。ダメだったら、捨ててもいいんだから」

 これは裁縫に限らず、すべてのことに当てはまる母の持論。母の持論というより、昔のひとはこういうふうであったのかもしれない。

 失敗から学ぶ。ひとつのやり方に止まらない。過程のなかから面白みをみつけ、工夫することを知り、あれこれ試みた末、自分に合ったやり方を身につけてゆく。その結果、幾つかの方法も心得ることになる。失敗も工夫も試みのどれもを経験し、その経験は強みとなる。それだからちょっとやそっとのことでは動じなくなるのかもしれない。言ってしまえば、唯一無二の正解などないということだ。

 このところのわたしときたら、わからないこと知りたいことにぶつかると、とにもかくにもインターネット頼みであった。インスタントに得た情報はあくまでもひとつの答え。大切なのはそれをきっかけとして広げてゆく事ごと。

  

 このところ、やたらとボウタイブラウスを目にする。流行りなのだろうか。

 今年の母はモード系をきどるかもしれない。八二歳のモード系も悪くない。

 

 

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東日本大震災後、友人の勧めでまとめて購入した非常食。

熱湯をいれて15分、水を入れた場合は60分後に

美味しく食べられます。

消費期限が来年の5月。少しづつ食べはじめています。

新しいものを購入する時期になりました。

西野 そら