西野そらの日々の事ごと

「書く」ことを暮らしのなかの一つに。日々の些事をどう受け止め、考えたのか。忘れないように。

睦月、如月。

「1月、長くない?」

夕飯の片づけをしていた長女が話しかけてきた。ほー、このひともそうだったか。

 成人の日(1/14)が過ぎたころから、カレンダー、新聞、パソコンで日付を見るたびに「ひゃー、まだ1月」「えっー、まだ1月」わたしはこう思っていたのだ。

 12月の暮れ、胃腸炎を患った。体調が戻ってからもウイルスが家族にひろがらぬよう願いながら、わたしはおずおずと新年のしたくをした。1月の仕事はじめのころには、夫がインフルエンザに罹患。長女、次女とわたし3人ともにインフルエンザウイルスにやられまいと、見えぬウイルスと静かに闘ったりもした。

 そんなこんであったから、雑誌の合併号のように、12/1月のふた月分を1月と捉えてしまい、わたしは長く感じているのだろうか。

 それとも。気にかかるあれやこれやが停滞している1月だから、ことが運ぶであろう2月が待ち遠しいのか……。

 

「1月、長くない?」

わたしは大きく頷きながら応える。

「2月まで、あと3日もあるものね」

 

「2月、早くない?」

風呂上がり洗面所で髪を乾かしていた次女が鏡越しに話しかけてきた。ほー、このひともそうだったか。 

 どうやら1月は次女にとっても長かったらしい。が、昨夜(5日)は、2月にはいってもう1週間だよと驚くのだ。いやいや、あと2日あるじゃないの。先走りしすぎだ。まあ、それだけ2月に入ってからの時間の進み方が早い、と感じているのにちがいない。

 停滞していたあれやこれやが少しずつ動きはじめた2月。じつはわたしも思っている。あら、やだ。もう6日じゃないの! 

 

 年々、時が経つのが早くなっている。過ぎさる時間を慌てて追いかけている、そんな感じ。だから1月は久しぶりに待ち遠しさを味わう時間であった。

 ここまで書いて、はたと思う。待ち遠しいという言葉には期待という意味合いも含まれる。ということは、願っている事ごと、停滞しているあれやこれやに期待しているのだな、わたしは。

 

 

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妹から送られてきた画像(掲載許可済み)。

小3の姪っ子が踵を骨折したそうです。

痛々しいけれど……。

でもじつは。初ギブスの姪っ子が

得意げな顔でピースをしている画像なのです。

そして、小5の兄(甥っ子)は

ギブス姿の妹を羨ましそうに見ているのですって。

非日常的なものは、妙に格好よくみえたりするから、

得意げになる気持ち、それを羨む気持ちの両方とも、

わかる、わかると思った次第です。

西野 そら

A6サイズ

 かばんの中にあるもの。財布、家の鍵、ハンカチ、ティッシュ、化粧ポーチとスマートフォン。夏の時期と雨が降りそうな日には、汗拭きシートと晴雨兼用の折りたたみ日傘が加わる。そうだ、電車に乗る外出の場合は文庫本も。これらがわたしにとって必要最低限のものたち。

 数人で出かけると、「どうぞ」とかばんの中から飴を配ってくれる人がひとりはいる。そのうえビニール袋も取り出し、飴の包み紙をビニール袋に集めて持ち帰る人もある。こういう人のかばんにはなべて、携帯用裁縫道具やバンドエードの類もきっちり納まっているものだ。備えのよい人をまえにすると、自分の出来の悪さが身にしみるけれど、次出かけるときに飴やビニール袋をかばんにしのばせるかといえば、そうはしない。備えのよさより身軽である方がわたしにとって優先順位が上なのだ。

 これほどまでに身軽がいいと思っているというのに、数年まえから無印良品のA6サイズのダブルリングノートが必要最低限のものたちに仲間入りを果たした。

 なんでもノート。スケジュール帳をもたないうえに、覚えておきたいことが容赦無く記憶から消えてゆくものだから、なんでも書きつけるノートをもつことにしたというわけだ。2019年1月15日現在、まだ数頁残っているから、書き付ける頻度はそう多くはないのだけれど。

 使い始めの頁にはこうある。

 2016/9/25『 HHhH』ローラン・ビネ 高橋啓訳(東京創元社)読了。ナチ ハイドリッヒ ガブチーク

 そのあとの頁をランダムに開くと、

 2017/2/23 試合 苦痛 勝負のゆううつ わたしの戦いどころ つきなみですが

 2018/7/23 注文数50 送料 注文数 11月末発注

 やはり、なんでもノートだけのことはある。

 2017年2月23日に書いてあることなど、今読み返すとなぜこんなことを書いたのか、さっぱり思い出せない。試合ってなんだ?そうとう追い込まれているふうな言葉の羅列で、よろしくない感情だったのだろうことがうかがえる。2018年7月23日の分は次女の高校の謝恩会で配る記念品のこと。

 なんでもノートの頁を繰る……。そこにあるのは忘れて構わないこと、忘れてしまいた感情、覚えておきたいこと、書き付けていなかったら思い出しもしなかった事ごと。

 

  追記:かばんの中に仲間入りした「なんでもノート」の他に、ペンケースも仲間いりしました。赤いペンケース。ああ、すっかり忘れてました。

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なんだと思いますか。

鉛筆けずりです。

受験生には必需品らしいです。

西野 そら

 

年末年始

 昨年最後のブログを更新した(12月26日)あの日。

 明け方ごろから胃のあたりの臓器が、ジタバタしはじめていた。痛みでうつらうつらするなか、次女の弁当、出勤前に撮るつもりでいたブログ用の写真、職場の事ごとに思いをめぐらせる。

 そして、すっかり目覚めてしまわない程度にぼんやりと自問自答をしたのだ。

 できるかな。……やらないと。……とにかく眠ろう。

 

 けれども、朝目覚めたときには胃を絞ったような痛みにくわえ、胃腸炎の症状がそっくりでていた。

 食あたり?ウイルス性?

 どちらにしても夫や娘たち(一人は受験生!)に、うつすわけにはゆかない。朝ごはんと弁当はつくらない。家族に宣言する。仕事も休まないとダメだろう。申しわけない思いで職場に連絡をする。ブログ用の写真。これは台所で目の端にとまった赤トウガラシを撮る。予約投稿の手はずを整え、布団にもぐりこむ。

 仕事が休みの翌27日もひたすら眠り、仕事納めの28日にはどうにか出勤と相なった。

 

 じつは27日から31日までの5日間が、ちょっとすごかった。   

 27日夕方、わたしの胃腸炎はウイルス性であったと判明した。夫に胃腸炎の症状がでたからだ。とはいってもウイルスはさして暴れず、感染は夫以外に広がらずにすんだ。

 28日、次女が鼻声になり、風邪の気配をただよわせる。

 29日、夜から次女発熱(30日は1日眠り、31日復活)。

 30日、近くに住む84歳の母が体調を崩し、31日にはいよいよ入院かという事態にまでなった。父はうろたえ、血圧が上がる。結局、入院には至らなかったが、母は原因不明の体調不良のまま新年を迎えることになった。

 それにしても。母には感心する。

「これで悪いことはおしまい。新年はいいことばかりよ」

 元気はないが、こう言ってのける。悪いことが重なっても母は光を見つけるひとだ。

 バタバタと2018年がおわっていった。

 

 2019年1月1日

 台所兼居間に花器として飾った竹筒が、突然割れて中の水が流れた。言葉で表すとこうなるが、割れるのを教えたのは音。バキ、ジャー。

 笑っている場合ではないが笑える光景だった。しかし竹筒を飾ったキャビネット裏にはコンセントがあって、ケーブルやら電気コードが束ねてある。そこに水が滴たり落ちるものだから笑っていられない。

 新年はいいことばかりのはずなのに……。でも母流でゆけば、笑う角には福きたる。こんな調子にちがいない。 

 バタバタと2019年がはじまる。

 

         

               新年おめでとうございます。

               本年もよろしくお願いいたします。

 

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12月31日に花のバランスをみるために撮った写真です。

雑然としていますが、割れた竹筒をお見せしたく。

この竹筒の前の中央が下までくっきりと割れました。

西野 そら

 

少しずつ。

 3ヶ月ほどまえ、買いもの帰りに立ち寄った近所の図書館でのこと。

 幼児コーナーで若いお母さんが3歳ぐらいの女の子に絵本を読み聞かせていた。もちろん低い声で、周りが迷惑しない程度の音量である。

 ところが、絵本を読み進めていくうちに女の子の反応が大きくなりだした。絵本の絵に反応しているのか、館内には女の子の声が響き渡った。その声は他人のわたしがハラハラするほど大きくなっているというのに、注意するふうでもなくお母さんは絵本を読み続けた。

 幼児が大きな声を出すのは仕方がない。されど、図書館は大きな声を出してはいけない場所であることを、こういうときに親(近くにいる大人)が教えなければ、子どもにとっては学べるはずの絶好の機会を逃すことになる。 

 小さいのだから教えてもすぐには理解できない。しかし、すぐにはできなくとも教え続けるうちに、騒ぎ出しら外にでる態度を繰り返し見せるうちに、幼児とて少しずつ理解してゆくのになあ……。

 と思いつつ、わたしも声をかけてよいのかどうか、かけるにしてもどう声をかければよいのか迷うのである。

 子どもに向かって、あっけらかんと「静かにしようね」と言えばいいだけのことかもしれない。が、恥ずかしながら、いい意味でおばさん力がまだ身についていない。

 そうこうしているうちに(図書館の職員が声をかけたのかもしれないが)母娘は帰っていった。

 

 えーとこの話、続きがある。

 つい数日前、くだんの図書館でこの母娘に遭遇した。このときもお嬢ちゃんが大きな声で話しはじめたのだけれど、ほどなくしてお母さんが静かな声ではじめたのだ。

「図書館は本を読んでるひとがいるの。◯◯ちゃんが大きな声をだしたら、集中して本を読めないでしょ。だから図書館では静かにしてくださいね」

 そうだった。親だって少しずつ親になってゆくのだ。……わたしも少しずつおばさん力が身についてゆくはず。

 

 

 

 ことしもここにきてくださり、ありがとうございました。

 週に一度の更新がままならず、隔週更新さえもあやうくなってきましたが、

 読んだよの印がうれしく、そして励まされ、ことし最後の更新にたどりつけました。

  

 少しばかり早いですが、

 みなさま、どうぞよいお年をお迎えくださいませ。

 

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束で売られていると買わずにはいられない

赤唐辛子。

数ヶ月まえにもとめたけれど、

ことしは出番が少ないなあ。

西野 そら

 

浄化

 前回ここに、黄金色に色づいた銀杏をみて肯定的な心持ちになれた瞬間のことを書いた。なぜ肯定できたのか……。もう少し付け足すことにする。 

 ヒトの手の及ばぬ自然には、わたしの中に溜まった澱のようなものをとりのぞいてくれる作用があり、そのはたらきが効いて肯定的な思いを沸き立たせるのだろうと思う。

 わたしたち、意識はしていないけれど自分を信じて生きていますよね。だって、ひとかけらでも自分を信じるところがなければ生きてはいけないはずだもの。つまり自分を信じていけるように、日々を一所懸命に生きているのだとも思うのです。

 それでも、突如として自分を信じる気持ちを揺らがせるようなことは起こる。

 そのうえ。起因となるのは、いつもならどうということのない程度の些細なことの場合も少なくはない。たとえば、だれかのなにげないひと言で。自らがやらかした小さなミスで。もっと違うやり方があったかもしれないと、省みる瞬間、などなど。

 自信がなくなることでなによりまずいのは、自信回復のために、自分が信じてきた思考や正義を胸のうちでこねくり回わすことじゃないかという気がしている。こねくり回しているうちにどんどん気持ちが内側にむかうという事態に陥るから。

 でもこんなときなのだ。

 ふと、大空を見上げ、その空が真っ青に澄んでいたらなおさらに、散々こねくりまわした思考やら正義やらがどれほど小さいか気づく。そして、わたしはわたしと思える。

 で、このたびは黄金色に色づいた銀杏並木が、胸の内の澱を浄化してくれたというわけなのでした。

 

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 いつかベランダから見た空。

西野 そら

銀杏並木

 「最近は春の桜より秋の紅葉が好きになってきてるなあ」

 と、トモコさん。

 近所に住むトモコさんとは20年来の付き合いである。互いに立ち入らないほどほどに近しいこの距離感は、出会った当初から変わらない。

 一ヶ月あまりで今年も終わるというのに、つい先日今年初めてトモコさんに会い、黄金色に色づいた銀杏並木をわたしたちは並んで歩いたのだ。

 

 互いに相談とか打ち明け話の類をもちかけたことはこれまで一度もない。あっ、わたしはたまに泣き言を漏らしはしたけれど、そんなことはサラサラと聞き流してくれる関係であったのだなあ。

 会えば、ただその時々の様子を話すだけ。意見も思いも返しはしない。差し障りのないおしゃべりをしてきただけのように思えたけれど、20年あまりの年月の移ろいは互いの家族のありかたの変化や自分自身たちの変化をも、ともに感じてきたのにちがいない。

 

 「最近は春の桜より秋の紅葉が好きになってきてる」

 トモコさんの言葉に、わたしはあらためて銀杏に目をやる。

 ああ、ほんとうだ。黄金色に色づく銀杏がこれほど胸を揺さぶることがあっただろうか。

 そしてどうしてか、わたしはわたしで大丈夫、と思えた。自分を信じることができる瞬間であった。

 

 

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ブルースター、好きな花のひとつです。

西野 そら

 

卓球

 妹の家に行った。

 目当ては小学5年の甥っ子と3年の姪っ子。うちに小さい人がいなくなったから、このふたりから漂う力(ちから)とか穏やかな空気に、ときおり包まれたくなる。

 2ヶ月ぶりに見る甥っ子は、どことなくではあるがいままでと雰囲気がちがった。無口でもある。二言三言(ふたことみこと)話をして、すぐに妹のスマートフォンで気に入りのユーチューブを見はじめた。声がわりがはじまったのか、聞き慣れた声よりもいくぶん低い。

 少し前までうんちネタやお尻ネタを持ち出してはゲラゲラ笑っていたのに……。会うたびに少しずつ成長してゆく姿は逞しく。されど、なんだかつまらない(成長する子どもをつまらないなんて言うと、妹に怒られそうだけど)。

 姪っ子のキミちゃんは相変わらずおしゃまさん。会うなり軽快にジャンプして抱きついてくる。キミちゃんを抱きかかえながらわたしはクルクルとまわる。クルクルまわるとキミちゃんはニコニコになる。

「卓球やろうよ」

100円ショップで揃えたという卓上用ネットをキミちゃんがセットするや、食卓はたちまち卓球台の顔になった。100円には見えぬラケットを手渡され、妹と静かだった甥っ子も一緒に、総当たり戦をはじめる。

 小さな人たちとの暮らし。娘たちが小さかったころは家がこんなふうに、はなやいでいたなあ。ああ懐かしい。

 

 子どもは生きた年数分だけの知で生きている。大人のすること友だちのすることをじっと観察しながら元来備わった性分や身につけた知で、ズルをしたり、じっと耐えたり、笑ったり、泣いたり、優しかったり、嘘をついたりする。良すぎたり、悪すぎたりしない過不足のない感じが、わたしを和ませるのだろうか。そうだ、知りたい欲が旺盛なところにも、感心させられるなあ。

 もちろん、あんまりにも訳がわからないことを言って、頭に来ることだってたくさんあるけれど。

 

 今度はいつ会いにゆこうかな、あのふたりに。

 

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栞をつくろうと思い立ち

押し花にしました。

花びらが折れてしまい、失敗。

西野 そら