西野そらの日々の事ごと

「書く」ことを暮らしのなかの一つに。日々の些事をどう受け止め、考えたのか。忘れないように。

 テレビをつけると、プロ野球の野村元監督が門前で、夫人が亡くなったことを報道陣に話す姿が映っていた。わたしの記憶する監督よりも年老い、しばらくテレビにくぎづけとなる。

 門前の取材映像が終わると、野村元監督夫妻の過去の映像がながれはじめた。それがいつ頃の映像なのかはわからないが、たびたびテレビで監督夫妻を見た当時の、つまりわたしの記憶している監督がインタビューに応えていた。

 なにかと世間をにぎわせている沙知代夫人との結婚についての質問に、

「良縁、悪縁、奇縁と縁にもいろいろあるけど、せっかく結婚したんだから、良縁にしたほうがいいじゃない、そのために互いに努力するんですよ」

 言葉は少しちがうかもしれないが、そんな内容であった。

 

 良縁にするために努力する。ここで、わたしは唸る。たしかにそうだなあ。

 他人との生活なんぞ、努力なくしてはうまくゆかないのだ。はじまりは盲目的な愛があれど、そんな感情など長くは続かない。痘痕(あばた)を靨(えくぼ)と勘違いしていたと気がついた時点から努力はじまるのかもしれない。互いに歩み寄るためにケンカをし、そして修復させる。この修復は努力なしにはできないし、ケンカと修復の繰り返しも努力であろうし、気づかぬふり、見ぬふりも努力であろう。

 

 これは夫婦間だけのことではないかもしれない。他者との関係性においても、その縁が良きものとなるように距離をはかりはかり、できぬときがあるにしても、互いの立場を尊重しようと心を配ったり、相容れぬことがあってもいちいち気にしないようにしよとしてるじゃないの、わたしたち。

 考えてみると、良縁という言葉はとかく関係性の持続という点に気持ちが向きがちであるが、たとえその関係がきれることがあってもだ。そのかかわりでしか経験できないことがある。一旦は悪縁と思われた縁も、時の移ろいにより良縁の部類にいれてもいいか、と、いつかは思い直すこともあるかもしれない。

 

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西野そら

月とドーナツ

 思いがけず、大きな大きなまあるい月と遇う。

 月と遇う。こんな言い方はおかしいけれど、此の度はまさに「遇う」がふさわしかった。

 

 うちは集合住宅の4階。玄関先から左にすすむとエレベーターホールに続く廊下にでる構造である。そうだ。廊下の向こうは東の空が広がっていることを書いておかなければ、月と遇った話をはじめられない。

 月と遇ったのは玄関を出て、左への一歩をだしたその時だった。わたしの目線の先に広がる夜空に(といっても夕方の5時を回った時間ではあるが)、大きな大きなまあるい月がいた。「いる」というのもへんであるけれど、月がそこいて、思いがけず遇ってしまったと言う以外にどう言えばよいのかわからない。

 いつもは見上げているだけの月だけれど、この日の月は大きく、近かった。知り合いと遭遇したような驚きと懐かしさだろうか。「こんばんは」声にはださなかったが、わたしはとっさに胸の内で挨拶をしたような気さえする。

 

 どうやら、わたしの遇ったあの月は、ことし(2017年)一番大きく見える満月だったらしい。当日の深夜パソコンをひらいて知る。12月にはいって3日目のことだ。

 

 思いがけず、外での仕事と出あえた此の年。

 最後の一枚となったことしのカレンダーにも出勤日が記してある。出勤するたびに初めて経験することがあった7ヶ月である。初めて経験することにたじろがないために、できるだけ体力や気力を温存させようと、家の事ごとはルーチン的にすませてしまった7ヶ月ともいえようか。

 それにしても、仕事をはじめた4月から師走になるまでの早いこと早いこと。日々を済し崩しに重ねてきたような気がしないでもない。が、この年もわたしの人生の一年であり、すぐにはわからないにしても、なくてはならない日々であったはずであると思いたい。

 ことし一番の大きな大きなまあるい月に遇えたことも、いつかふと思い出しては懐かしむ日があるのだろうな。

 

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12月3日の月の写真は撮らなかったので、

その日夫が土産に買ってきたドーナツを

撮りました。

西野 そら

居合せる

 土曜日。

 到着予定時刻を5分過ぎていたが、待ち人来ず。出入り口付近で賓客を迎え入れようと待機していた、いつもは険しい顔つきの上司が、うろたえている。

「まだ、おみえにならないのよ」

 さらに5分後。変わらぬ状況に、もはやすがるような目で、

「困ったなぁ」

 と、上司は言い言いあたりをウロウロして、また出入り口にもどる。

 遅れているといっても、まだ10分を過ぎた程度。そこまでうろたえるような事態ではなかろうに。とは思うものの、これは責任を追わない立場であるゆえの考えだ。このまま到着時間が遅れていったら……。もしも来られなかったら……。最悪の事態を想定し、対処しなければならない上司の立場ではこの10分が、たかが10分とは思えないのもわからないではない。

 困っている上司に立場の違う周りの者たちは「遅いですね」「そろそろお見えになりますよ」無責任ではあるが共感のことばや肯定的なことばをかけるしかできない。

 結局、賓客は15分遅れで到着し、上司はいつものキリリとした顔つきにもどった。

  

 日曜日。

 夕飯の買い物にでかけたときだ。スーパーマケットの広い平面駐車場に車を止め、隣の車にぶつけないようにドアを開けようとしたその時、隣の車の中に半ベソをかいている男の子の顔がみえた。小学校に上がるか上がらないくらいだろうか。ギョッとしつつ車を降りる。うちの車のまえにまわり、夫がおりてくるのを待ちながら、さりげなく隣の車の様子を窺う。どうやら男の子がひとりでいるよう。この子もまた、すがるような目でわたしの顔を見ている。

「だいじょうぶ?」と口パクで訊く。すると「だめ」と男の子の口が動いた。「だめ?」訊き返すと首を縦にふる。「ちょっとまってて」口パクで答え、ナンバープレートの数字をノートに書きうつす。夫はその場に残り、わたしは急いで店に走った。

 受付で説明をすると、店内放送でナンバーを呼び出し、車の主人(あるじ)を待ったが、それらしきひとは現れない。とりあえず車の位置を教えるべく、店の人と駐車場に向かっている途中だった。「お祖父ちゃんが戻ってきたよ。そっちにいくから」と夫から電話がはいった。

 大事に至らずにすんでよかった、よかった。一人でよく耐えた。エライ。という話なのだけれど、ふと、ふと思ったのだ。 

 年々少なくはなるだろうがいくつになっても初めてのことはあるわけで、どんなひとであろうが困るときには困る。そして。年齢に関係なく、困ったことに向き合い対処する(対処しない)のは困っている当事者だけなんだなぁ、と。

 周りの者も困っているふうではあるけれど⎯⎯⎯困っているひとが子どもの場合には解決の緒(いとぐち)になるようなことしてやれる場合はあるが⎯⎯⎯ただ、一緒に困っているのであって、言ってしまえば一時だけ、我がことのように困っているという感じじゃなかろうか。

 状況が変わるまで(変わらない場合もあるだろうが)そのことに向き合うのは、やっぱり当事者だけなのにちがいない。困った状況を経験しながら、知らぬうちにひとは孤独になれ、耐え、親しくなるのかもしれない。

 偶然にも定年間近の大人と、おそらく小学一年生前後の子どもがそれぞれに困っているところに居合わせることとなった、この週末。

 

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小金井公園(東京都小金井市)の陶器市でもとめた

陶板皿。これで焼くと、野菜も肉も魚もなんでも

おいしくなります。(個人の感想です)

西野  そら

 

 

端折りすぎ(はしょりすぎ)

 次女の部屋からは、毎朝次女の気に入りのバンドのうたが聞こえてくる。目覚まし時計のベル代りであるが、ロックバンドのうただからか、なんせ音が耳に刺さる。さして音量は上げていないらしいが、わたしには大音量に聞こえてならない。

 その曲が最初に聞こえてくるのは次女が実際に起きてくる40分前。一度目で起きてくることはまず、ない。スヌーズ機能(一旦アラームを止めても、しばらくして再び鳴りだす機能)を設定しているため、何分かおきに曲が流れてくる。

 起きやしないというのに、40分も前にセットするのは、最長であと40分眠れることを確認するためなのだとか。とは言っても、40分後はデッドラインの時間。その時間に起きたならギリギリ遅刻しないか、信号でつかまれば遅刻してしまうのだ。それだから、わたしとしてはその前に起こしたい。

「うるさいから音楽とめて。ほら、時間。起きなさいよ」

2度目の曲が流れたあたりで、次女の部屋にゆき、スヌーズ機能を解除させるが、この時点でも起きない。次女の部屋のドアを開けたまま台所にもどる。

 そして数分後。台所から「起きないと、遅刻するよ」「ほら、ほんとに起きなさい」声をはりあげる。

 寒くなってきたゆえ、毎朝の連呼はいっそう激しさがましてきた。よもや<あのバンドのうた>の音量よりわたしの声のほうが大きいかもしれず、まったく近所迷惑はなはだしい。

 

 その日も連呼の末だった。

「寒いから、早く起きなさい!」

言い放ったわたしも、へんてこな物言いに、

「サムイト、ナゼ、ハヤクオキルノ?」

胸の内で自問する。そしてそばで聞いていた夫も、

「寒いから、早く起きろって、どういうこと?」

いつもの端折りすぎ、言い間違いがはじまったとばかり、腹を抱えて訊いてきた。

「だからさ。ギリギリに家を出ると自転車をとばさなくちゃいけなくなるから、自転車をとばすと危ないし、今日は寒いから風をきると余計寒いじゃない。だからギリギリに出ないでいいように、早く起きなさいってこと」

こりゃ、端折りすぎだ。説明の途中で涙がでたのはアホな自分にがっかりしたからではない。アホさ加減が可笑しかったからだ。

 次女の部屋からも「フッフッフ」。笑いながら次女が起きてきた。

 

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ふかふかの落ち葉の絨毯

西野 そら

星座

 先日のこと。

 天秤座であるというOさんが書いた、天秤座の性格たるものカクカクシカジカであり、どう扱われると嬉しく、どういう扱いを受けると煙たくなるかという、さながら天秤座取扱説明書のようなエッセイを読み聞かせてもらった。

 これまでわたしは占いの類を眉唾もので見聞きしてきた性分である。天秤座がどの月生まれにあたるのか知らないし、ましてや星座や血液型で誰かの性格を想像するということはなかった。それだから世の中では共通認識であるのかもしれない天秤座の性格というものも知らなかった。

 Oさんの読み進めるエッセイを聞き逃さないよう目を閉じ、頭の端っこで捕まえた言葉のイメージを広げる。不意に妹の顔が浮かんだ。エッセイに書かれている性分や他者への対応が少しずつ妹に重なったのだ。天秤座のOさんが他者との関わりにおいて「胸の内では実はこう思っている」という本音を書いているところで、妹は天秤座にまちがいないと思ったほどである。

 Oさんの描く天秤座の性格がどういうものであったか、ここでは省くが、わたしがインターネットで検索した天秤座の特徴とそう、かわらぬことが書いてあったと記憶している。

 

「9月26日は天秤座ですか」

果たして妹は天秤座であった。

 

 しかしである。Oさんのエッセイを聞いている途中、「アタシ、天秤座だっけ?」と錯覚しそうになるところはあり、星座占いとはそれぞれの星座の特徴的な性格傾向ということであって、性格的特徴の感情や意志は誰しもが持ち合わせているのだろう。そんなわけで、どの星座の特徴をみても自分自身と当てはまる部分はあるような気もするし、今日は蟹座なわたし。とか、今日は牡牛座なわたし。と違う星座をよそおうのも楽しかもしれない。

 

 そうだ。山羊座の夫と乙女座のわたしの相性はそう悪くないらしい。占いを眉唾もので見聞きしていたわたしではありますが、、妹を想像させたOさんのエッセイを聞いたあとは、そりゃあ、インターネットで星座検索をしましたたとも。

 占いに精通しているあなた、乙女座が書きそうなことだなんて、笑っていやしませんよね?

 

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妹がお福分けしてくれた蕪と青梗菜。

西野 そら

ご機嫌ですね〜

 午後7時過ぎのデパ地下。時間が時間なので買い物客はせわしなく歩く人が少なくない。生鮮食品には20パーセント引き、30パーセント引きの値下げシールが重ねて貼られてある。シールの貼られた刺身の盛り合わせ、肉のパック、野菜をもとめているあいだに、共にでかけてきた夫はフラフラとどこかへ行ってしまった。

 

 レジの向側にある惣菜売り場を探してまわる。

 夫は期間限定で出店しているピザ屋のまえにいた。

「ピザ、どう?」

夕飯に飲もうとしているワインのつまみにピザを買うかどうかを訊いているのだ。

 ピザ屋のお兄さんは、その夫の声を聞き逃さなかった。

「このガーリックピザ、人気があるんですよ」 

試食用に小さくカットされた一切れのピザを夫に差し出す。

「おいしいよ」と言う夫はわたしの顔を窺いながら目で問いかける。買う?買わない?ピザ屋のお兄さんもわたしの反応を気にしつつ、

「はい、こっちはアンチョビのピザ」

と、わたしに差し出した。差し出しながら、こう続けた。

「いや、おふたかたともおしゃれ。大人のおしゃれっていうか。」

「ははは、そんなこと言われちゃ、買わないわけにはいかないじゃないですかっ」

どう返すのが大人の対応でおべんちゃらなんぞ真に受けてませんよ、と伝わるのか。夫の顔には迷いがみえる。

「ははは、またまたぁ。うまいですね」

わたしたちが曖昧な態度で曖昧にかわしているのに、お兄さんはあれこれとさらにおべんちゃらを言い続け、結局3枚のピザを売ることに成功した。

 まあ、わたしたちとしてはピザが好みの味であったから買ったのだけれど、いい客(カモ?)だったと思われたにちがいない。

 

 地下から駐車場へ向かう途中、夫が言った。

「ご機嫌ですね〜って、返してもよかったね」

 

 少し前夫にお笑いコンビ「オードリー」の若林正恭著『ご本、出しときますね?』(ポプラ社)を薦めた。そのなかにテンションの違う相手とうまく距離をとりたいときに「ご機嫌ですねぇ」という返しはつかえるとあり、「面白いうえにうまいよね」と夫と話したばかりだったのだ。

「今日はご機嫌ですねぇ〜」

なにげない言葉のなかにも隠されたメーッセージがある場合もあるのですな。ウッシッシ。

 

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西野 そら

事故!?

 夕飯の片づけをしていたときだ。

 箸とカトラリーをしまうために食器棚の引き出しを開けたその瞬間、引き出し中身もろとも落下した。ガシャガシャ、ガッシャーン。 

 手元を見ていなかった。次にしまう食器に気持ちは向かい、顔だけ振りかえり食洗機の中に目をやっていたというわけだ。それだから思いもよらない金属音の甲高い音に驚き、金属音のような甲高い声でわたしも叫ぶ。きゃー。

 

「最後まで手元をみなさいよ」

 戸を閉めたり、蛇口をしめたり、汚れを拭ったりするとき、自分ではやったつもりでも、戸は閉まりきっていなかったり、蛇口からチョロチョロ水が出ていたり、汚れが落ちきっていなかったりということは、ままある。つもりで終わらせないためには、最後まで手元を見ていることが大切。さんざん母に言われ、わたしも娘たちに言ってきたというのに。こんな具合にときどきやってしまう。

 

 床に派手に散らばる箸、カトラリー、整理トレー。普段ならため息がでる事態である。が、このたびの落下事故は絶妙なタイミングで起こり、事故が事故でなくなった。散らばったそれらをステンレスのザルに拾い入れ、水を張ったボールに浸ける。

 さあ、整理整頓をするときがきましたよ。

 食器棚、戸棚、キャビネット、クローゼット、整理箪笥。種類はなんであれ、開け閉めする頻度のたかい引き出しの中は、次第にゴチャゴチャとしてくるから、定期的な整理整頓が必要だ。このところ、ハンカチ、弁当包み、布袋が収まる引き出しと、この箸とカトラリーを収める引き出しの雑然さが気になっていった。  

 引き出しをあけるたびに低く唸る感じがあって、そう遠くない時期には取り掛かるだろうね、わたしは。と思いながら引き出しを閉めていたのだ。

 

 事故でなくなるような事故の起こる日。そういう日に助けられて事が進む場合もあるのです。褒められた話でないにしても。

 

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西野 そら