西野そらの日々の事ごと

「書く」ことを暮らしのなかの一つに。日々の些事をどう受け止め、考えたのか。忘れないように。

デコとボコ

 デコボコした感情が平(なら)されてゆくことを大人然とするなら……。

 五十代も半ばにさしかかろうというのに、平されないままのデコボコが形状記憶さながら形をなしてくることが、わたしにはある。

   いつまでたっても平されない(しくじりを笑い飛ばせなかったり、緊張しすぎたり)自分につくづくガッカリするのだけれど、デコボコの何が悪い、とも思う。

 わたしはきょうもコソっとデコを片手で押さえ、ボコを親指と人差し指で引っ張り出す。

 

 

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少しまえ、夫がブログにどうかと、

撮ってきた写真です。

西野 そら

 

素朴な疑問

 午後2時過ぎ。

 仕事終わりの職場の玄関先。顔見知りの清掃係の女性が声をかけてきた。

「だれか待ってるの?」「はい、タクシーを」娘の体育祭で学校へ行くと言うと訝しげに、

「お嬢さん、小学生?」

「……いえ」

わたしは首を横に振り、娘が高3であると続けた。するとどうだろう、今度は思いきり目を見開いたのだ。

「今どきは高校の体育祭まで親が行くの?」

きっとこれ、素朴な疑問と驚きになのにちがいない。

 

 わたしが高校生の時代も体育祭を見にくる親はいた。が、家が近所だからのぞきにきた程度で、サッと来てサッと帰って行った。

 それだから8年前、高校生になった長女から体育祭のお知らせをわたされたときには、にわかに信じられなかった。当時のわたしはこの度の清掃係の女性と同じ疑問が沸いたのだ。

「高校の体育祭に親が行くの?」

当日、誰もいなかったらどうしよう。心もとないまま学校へ行ったが、心配は杞憂に終わった。相当数の親が静かに観客席にいたのだ。

 高校生ともなれば競技を見守る年齢でもない。親としは家では見られない姿を見たい気持ちはあるが、子どものほうは、きてほしくなさそうにもみえる。

 高校の体育祭は子どもたち自身が楽しむものだなあ。これでおしまいにしようとお思った。 

 体育祭に行ったのはそれきりだ。

 ただし、学校側も体育祭は親たちが見にくる前提でのお知らせを配布しているのだけら、相当数の親たちが観客となるのは当然なのだろう。 

 

 で、この度の体育祭、つづきがある。

「実は……」

言いかけたところでタクシーが到着し、わたしは車内に乗り込んだ。

 この話、前回書いた「機能」とつながっている。 

 ことし高3になった次女のクラスで卒業対策委員を引き受けた。高校であるから生徒が住む街は広範囲にわたる。つまり、委員としてことを進めるにあたり、何度も集合ができないかわりに、LINEで進めていた。が、LINEでは重要なことが決められず、会合と相成ったのだ。LINEでサクサクと決めた会合の日時がこうだ。

 体育祭終了後、校門前に集合。

 

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おいしい、秋。

西野 そら

機能

 LINEで文章を書くのが苦手だ。なんせ、文字を打ち込むスペースが小さい。少しばかり長文になると、打ち込んだ文が表示されなくなるから文が書きにくい。書き終えてからスクロールして読み返せばいいのだけれど、それが手間。読み返さずに送信する。だから誤字、脱字が多い。で、苦手意識が芽生える。

 そも。LINEを使うようになったのは次女が高校に入学した2年前。必要にせまられた。いつのまにか、連絡網がメールや電話からLINEに取ってかわっていたのだ。

 つまりLINEといえば、娘のクラスLINE、部活のLINE、学んでいる講座のLINE。わたしにとってLINEは進化した高度な連絡網がわりである。圧倒的に連絡される側であるから、長文を書くことはさほどない。たまに書く長文が先に書いた苦手意識につながるというわけだ。

 

 次女が高3になり卒業対策委員を引き受けた。

 担当者は6名。ことを運ぶにあたって、会合は2回だけ。それ以外はLINEでのやりとりでまかなっている。わたしにとっては便利そうでさして便利でもないLINEであったが、この度その印象に変化をもたらした。集まらずとも事が進んでゆく効率のよさに、拍手を送りたくなったほど。

 ……が、肝心要で弱かった。

 連絡をすると直ちに返答があるLINEでのやりとりが、重要なことを決める段でやりとりに間があきだした。文字の伝達では発信者の意図を察することまでできない。そうなると臆測が顔を出してくる。単純さが複雑さをはらみ、事が進まなくなるのだ。

 

 で、会合となった。LINEでサクサクと日程を決める(こういいう決め事はLINEの得意とするところ)。

 当日。顔を付き合わせ(視覚をはたらかせ)、他者の意見を聞き(聴覚の精度をあげて)、話し合う。過ぎる懸念も過ぎる気遣いもなく、サクサク事が運んだ。

 わたしたちの感覚はLINEに負けず劣らずの、高度な情報機能といってもいいのじゃなかろうか。

教えたかったのは……。

 小学生たちが私の仕事場でもある市立図書館にやってきた。1年3組の生徒たちと老練な女性の先生。

「ひとり3冊まで。時間は15分です」

いくぶんつぶれた低い声で先生は言い、生徒たちは散り散りになった。

 絵本。恐竜や月、地球。工作、スポーツ。そろぞれが一番に読みたい本が並ぶ書架へずんずん進んでゆく。

 「広島カープについての本ありますか」「手話の本はどこですか」

読みたい本を見つけらない子もある。短い時間で子どもたちが読みたい本に出あえるよう、探しものを手伝う。

 15分後、100冊の本が集まった。

 生徒たちは貸出カウンターの横に2列にならんで貸出の手続きが終わるのを待っていた。それも、じつにおとなしく。 

 途中、ざわつきかける場面もあったが、先生がキリリとした顔を列にむけて「静かにする約束だよね」低い声で静かに声をかけた途端、おしゃべりが止むのだ。

 貸出の手続きが終わると、子どもたちは順番に先生から数冊ずつ本を受け取り、持参した布袋にいれた。百冊の本がたちまち生徒たちの袋におさめらる。

 そして、先生は子どもたちに声をかけた。

お姉さんたちにお礼を言いましょう」

 

 静けさを取り戻した図書館。お姉さんと呼ばれたおばさんたちはヒソヒソと談義をする。

「先生が教えたかったのは……、方便かしらね」

「それよりあれじゃないの。 ほら、配慮の精神?」

 

 

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友人が薦めてくれた

安房直子の「秋の風鈴」がおさめられている

童話集『銀のくじゃく』(筑摩書房)です。

どんな物語でしょうか。楽しみです。

西野 そら

 

タンジョウビ

「お誕生日おめでとう」

起きしなの夫に言われ、自分の誕生日に気がついた。

 ソウダ。キョウハ、タンジョウビ。

 

 母とわたし、わたしと長女はそれぞれ30歳の年齢差がある。

 ことしの3月、母が84歳になった日に電話をかけた。「お誕生日おめでとう」母を祝いながら、ことしで長女は24歳でわたしは54歳か。母の年齢で長女と自分自身の年齢を覚えるのだ。母が健康でいてくれるありがたさ。仕事の話をしながら、キリリとした顔を見せるようになった長女。自分が54歳になるとは。と、しみじみした。

 3月の時点でしみじみと年齢を味合っているものだから、誕生日を待たず、母とともにわたしも年を重ねたような気になる。 53歳のおよそ半分を54歳と思いながら過ごしているわけだ。誕生日がきたら55歳かぁ。53歳だというのに55歳と思い込んでため息までついたりして。

 55歳を覚悟していたのに、ふと53歳であることに気が付くこともある。そんなときはなんだ、まだ53歳じゃないの!自分の年齢がいったりきたりしながら本当の歳があやふやになってゆくのだ。

 

 ソウダ。キョウハ、タンジョウビ。

はっとする。いくつになったんだっけ。一瞬、一つ多く鯖読み55歳と思う。で、気がつくのだ。

 ちがうちがう。今日からが、54歳のはじまりなんだわ。

 

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誕生日に夫が買ってきてくれました。

会社の近くの和菓子屋で

時々買って食べるのだそう。

ラム酒がきいたラムレーズン大福。

西野 そら 

 

 

 

8月のある日

 8月のある日。

    夏休みの甥っ子がやってきた。ヒロくん。小学5年生。人生ゲームの盤を引っ張り出し、遊ぶ。

 ヒロくん、チャンスのマス目で見事大金をつかむ。

「ゲームなんだからね」念を押さずにはいられないほどの欣喜雀躍ぶり。

 小学生の男子にとって現実の世界と仮想の世界の壁は薄いのにちがいない。ゲームであろうと、大金をつかんだ<自分>が心底愉快なのだ、きっと。無邪気だなあ。ヒロくんはどんな大人に憧れるのだろう。どんな変化をしてゆくのだろう。 

 

 8月のある日。

 かすかに聞こえていた雷鳴。とうとう近づいてきた。

 ピカリと放つ電光、腹に響く雷鳴がわたしは苦手。でも、この雷は……。じわじわと広がる雨雲は……。さあ、降ってきましたよ。ひとしきり雷様の太鼓を聞きながら、この雨が恵であることをおぼえ直す。

 窓を開けて過ごせる午後はいつぶりだろう。

 

 8月のある日。

 仕事でポカをやった。数ヶ月に一度あるかないかの端末の操作手順を忘れたのだ。仕方がないと思う。そう思うから忘れるのだろうとも思う。かろうじて止まっている記憶もある。忘れてはならぬ。操作手順を覚えるとき自分にこう言い聞かせた。

 言い聞かせたそのことは、覚えている。

 

    8月のある日。

 眺めるともなくカーテン越しに空を眺める。秋の雲。ベランダに立って、額のあたりに手をかざす。

 おお、昨日より断然、空が高いじゃないの。生ぬるくない風も随分とひさしぶり。

 そういえば。暑い盛りの蝉の声は夏を際立たせる。というのに、高い空のもとで鳴く蝉の声は、たちどころに秋を感じる。

 

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8月のある日、ベランダから見た空です。

西野 そら

裏切る記憶

 「カレー、食べたいな」夫の言葉にわたしは頷く。うん、おいしいカレーが食べたい。

 カレーを食べたくなることも、ましてや食べたいタイミングが夫と重なることも珍しい。一気にカレーへの思いが募る。欧風カレー、インドカレー、タイカレー。さあ、どれにしよう。

 ところが、夫はカレーのタイプではなしに、とあるカレー屋さんが浮かんだらしいのだ。30年近く前、友人と行ったという評判のカレー屋さん。

「あそこのカレーが食べたいんだ」

 

 そんなわけで、夫とともに件のカレー屋さんの店先に並ぶ。昼時を過ぎているというのに、わたしたちの前には6組の老若男女が待っていた。およそ30年ぶりに訪れた夫はこの人の列に驚いたようであった。わたしは期待が膨らみ、

「どんなカレーなの?」

夫に訊いた。が、夫は首を傾げただけだった。どんなカレーかは覚えていないが、おいしかったという記憶はあるのらしい。

 こういう記憶の止まり方は……、ある。事柄や原因は忘れているけれど、とにかく楽しかったとか、ひたすら悲しかったとか。ものすごく痛かったとか。感情だけの記憶。

 そして、こういう場合たいていは、記憶に裏切られる。同じものを食べても、同じような目にあったとしても、アラっ? こんなだったっけと拍子抜けするような裏切られかた。

 記憶は思い出すたびに上書きされてゆくと、きいたことがある。上書きされてゆく過程で記憶が膨らんだり、実際に経験したことで耐性がついたりして、拍子抜けと感じることが少なくないのかもしれない。

 

 ともかく、記憶とは存外あやふやなのだ。

 夫が覚えていなかったカレーは、数数の香辛料をつかい薬膳の香りを放つインドカレーであった。そして夫は「おいしい」とか「これこれ」とは、ついぞ言わなかった。

 

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雲の感じが珍しくて。

西野 そら