西野そらの日々の事ごと

「書く」ことを暮らしのなかの一つに。日々の些事をどう受け止め、考えたのか。忘れないように。

原稿は楽譜

「おすすめの絵本は?」

こう訊かれたら、まず浮かぶのは『まさかりどんが さあ たいへん』(かこさとし小峰書店)である。

 かこさとしといえば、だるまちゃんシリーズ、『カラスのパンやさん』『どろぼうがっこう』と数々の絵本があるし、どの絵本もなんども読み返してはきたが、だれかに教えたくなるのは、やっぱり、まさかりどん。

 

 はじまりは、まさかりどん(まさかり)が木をたおしたこと。まさかこのはじまりがあんな展開になろうとは……。大工道具、裁縫道具、機械用工具が次つぎに登場し、いろいろな物が作られてゆく。道具の名前を知る楽しみもあるうえに、作られたものが最後にすべて繋がる。おはなしとしても小気味よい。

 

 この絵本に出合ったのは長女が幼稚園に通っていた17、8年前。書店で、なんとはなしに手にとり表紙を開いた。かこさとしのあのタッチで描かれたまさかりと木。長女は気に入らないかも。にわかにそう思いつつ、読みはじたのだった。

 ところが。

「あるひ あるあさ あるときに……」

 なんともここちよいリズムの書き出しに、思わず声をだして読みたくなる。もちろん黙読をしたのだけれど、何枚か頁を繰ってもリズムよくことばが続くものだから、どしても最後まで読みたくなった。

 考えてみると長女のためというよりは、自分のために求めた絵本だったのかもしれない。

 

 原稿は楽譜(こころのうちで音読しながら書く)。

 これは、文章教室の山本ふみこせんせい(*)が、文章を書くにあたって大切にしていることをいくつか個条書きされた中の一つである。それにくわえて、原稿は楽譜ということを折々で口にされるから、このことはそうとう大切なのだ。

 わかっちゃいるが、書くとなるとなかなかうまくいかないんだなぁ、これが。まあ、書くことはさておいても、読むということでは大切の意味をことさらに実感できる。

『まさかりどんが さあ たいへん』は絵の可愛らしさもさることながら、リズムよく進むことで子どもの気持ちをつかむのかもしれない。

 自分のために求めた絵本ではあったが、あにはからんや、長女も次女も大の気に入りとなった。しまいには初めから終わりまですっかり諳んじるほどに。

 

 

   (*)山本ふみこ 随筆家。『朝ごはんからはじまる』/新聞社、『おとなの時間の、つくりかた』(PHP文庫)、『こぎれい、こざっぱり』(オレンジページ)、『家のしごと』(ミシマ社)ほか、著書多数。

 

 

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写真を撮るために長女の部屋の本棚からとりだしたとき、

「懐かしい。これ好きだったなぁ」

と、長女。いつかまた読み返す日がくるでしょうね。

西野 そら

 

 

基本のキホン

 ああ、ひどいったら、ありゃしない。

 なにがひどいって、このところのわたしである。 

 

 週に数日、外での仕事をはじめた今年の4月から、家の仕事の大切さに気がついていないわけではなかった。いや、気がつくというよりも、むしろ大切さを思い知らされたていた、というのに。

 

 家の仕事を大きくわければ、料理。洗い物。洗濯。掃除。本当はこれ以外にも暮らしの彩りに花を生けたり、壊れもの破れものの修繕をしたり。料理、洗濯、掃除をしやすくするための、(たとえば糠床の手入れとか、買い物だとか、ひどく汚れた洗濯物のつけおきとか、掃除機の掃除とか)、暮しの瑣事は事欠かない。そのうえ繰り返すのだから、主婦になりたてのころは億劫で、目の届いていない事ごとも少なからずあった。

 しかし同じことをしていると発見があり変化がある。

 たとえば、味噌汁の出汁の取り方は結婚した当初から現在までこんな具合に変化をとげている。顆粒だし→鰹節(花かつお)→昆布と鰹節(細削り)→昆布と煮干し。手間と味と値段を考え合わせて、昆布と煮干しに落ち着いたというしだい。出汁パックの買い置きもしてあるが、大抵は昆布と煮干しでとっている。   

 風呂掃除もそうだ。

 さして広くない空間だというのに、掃除をしているつもりでも目のゆかない場所はでてくる。ひとによって汚れが気になる箇所もちがう。そういうことがわかってきたころ、風呂掃除は子どもたちの仕事となり、ときどきわたしが全体を掃除するようになった。

 こういった、あげてゆけば切りがない些細な発見や変化を繰り返し、暮らしの瑣事をないがしろにしてはまずい、と思うようになったというわけだ。

 こう思えたことは、わたしが四半世紀にわたり家担当の身であったことの良き点である。

 

 というのに、外での仕事を始めて。

 家とは関係のない場に身を置く緊張。仕事の覚えられなさ。面白み。週に数日とはいえ外で仕事をしながら家の仕事をする大変さ。いろいろなことが綯交ぜになって体力的にはそれほどくたびれていないのに、くたびれたと思いたかったのかもしれない。気持ちが家に向いていなかったのだろう。家のあちこちが、妙にくすんでみえる。くすんでるのは汚れているというより、なおざりに家にことに向き合っていたからだと思われます。ごめんよ。

 

 まったくねぇ、ひどいったら、ありゃしない。

 

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鎌倉の大仏。

西野 そら

 

 

               

心に居座る岩

 母と電話をしていたときだ。

「お父さんもお母さんも動物が苦手だったからね……。」

 母が反省めいた言葉を口にした。 

 わたしのブログ、7月11日の「不条理」を読んで、娘に動物苦手意識を抱かせたのは自分たち親の影響と考えたのらしい。

 7月11日のブログには捨てられていた猫のこと、そこから生き物へのわたしの考えを書いた。母はわたしの生き物への慈愛が薄いと感じたらしい。いいとか悪いというのではなしに、幼い頃に犬か猫でも飼っていたら、動物への苦手意識を抱かずにいられたかもしれない。反省にも近い思いにかられたようであった。

 83歳の母が50歳を過ぎた娘をみて、いまもなお、こういうことを思うのだなあ。

 娘の立場であるわたしとしては、犬猫が近づいてきたとて追い払うわけでも、危害を加えるわけでなし。なにか問題でも? なにごとにおいても得手不得手はあるじゃないの。と思わなくもない。なにより、姉のところはヨークシャテリアを飼っているのだ。一概に親の影響とはいえないんじゃないのかしらね。

 とはいってもだ。これは娘の立場の発想である。

 親の立場では、仮にうちの娘がわたしと同じことを言ったとしたら、わたしも母同様、反省めいたことを思うはずだ。

 そういえば。

 つい先ごろ見た韓国映画『チャンス商会〜初恋を探して』で、「子どもは心に居座る岩のようだ」という台詞があった。親にとっての子のあり様を自分ではこれほど明確に言い表せられないでいたのだけれど、そうそう、これ。これです。

 雨風にさらされて、少しずつ岩は形を変える。その変化を止められはしないけど大地は岩を抱きつづける。

 わたしも子どもたちを思い通りにさせてゆくことはできない。できるのはいてやること。大地のようにどんと構えていられないとしても、反省したり、喜んだり、笑ったり、怒ったり、泣いたりしながら、わたしは、ただただ、いてやるしかできないんだなぁ。

sosososora.hatenablog.com

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西野 そら

ナツシグレ

 ミーンミーン、ジージー、ジリジリジリリリ……。

 朝からその音の波は、あたりを響もしていた。無意識に聞き取っていたその音の波が、ある瞬間に蝉のこえであったことに気がつく。常よりはげしく聞こえてくる蝉の声。

 そうか、これが蝉時雨だな。

        

 これより数日前のことだ。

 日差しの強い、夏らしい日だった。わたしは仲間5人と連れ立ち西新宿方面から新宿駅に向かっていた。

「向こうの街路樹からの木漏れ日。まさに夏の風景だね」

 ひとりの言葉に、ほかの4人がいっせいに車道の向こうの方へ首を振る。あら、ほんと。太陽に照らされた街路樹はかすかに白茶けて見えるが、ところどころに光る緑と道路の陰影からは暑さと同時に涼しさも感じる。「ほんとねぇ」「夏らしい」。

「夏時雨。実際、こんな言葉はないんだけどね。」

と、切り出したのは博識で年輩の友人。

 時雨とは秋から冬にかけて降る雨のことだから、夏にはつかわないが「夏時雨」という言葉を考えたというのだ。そういえば、どういう意味合いでつかうのか訊きそびれたが、日差しが強かったり、曇りがちだったりしたこの夏のありようを表したのか。ほんとうのところはわからないにしても、夏時雨という言葉を聞いたとき、その響きに違和感はなかった。

「夏時雨、いいですね。蝉時雨は夏の季語ですからね」

蝉時雨はひとしきり鳴きたててはやむ、たくさんの蝉の声を時雨にたとえている言葉なのだそう。

「夏時雨もありですよ」

 街路樹の夏の風景に気がついた友人が、にわかに盛り上がった。この友人は俳句を詠むのでそういう方面にめっぽう詳しいのだ。

 ほお、夏時雨という言葉はないのか。なんとなくありそうではないか。それにだ。時雨が冬のことばであることもわたしは知らなかった。氷雨なら冬っぽくもあるが、時雨は夏のにおいがしなくもない。どうしてだろう。

 時雨、シグレ、しぐれ……。そうだ、かき氷はしぐれとも言うじゃないか。

「夏時雨、いいじゃないですか。かき氷をしぐれとも言うし」

ほら、わたしいいことを思いついたでしょ。そんな顔でみんなの顔を見渡した。うん、うん。一同、頷く。が、一瞬の沈黙あとだった。

「それをいうなら、(*)みぞれでしょ」

 

 そうか、これが蝉時雨だな。

 ツクツクホウシのこえも混じっているが、蝉時雨は夏の季語なのだと感じ入る。

 ああ、8月が終わる。

 

 

       *後日調べたところ、赤城しぐれというかき氷(カップ)の商品が

        赤城乳業にありました。

        わたしのしぐれ発言にはこのアイスのイメージがあったものと思われ

        ます。

 

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8月のある日の夕焼け。

西野 そら

ものは言いよう

 さして狭くもない歩道でのことだ。すれ違いざまにぶつかりそうになって、あわてて肩を後ろにひいた。

 ほぼ同時に、

「ちっ、どこ見て歩いてんだよ」

 と、吐き捨てるように言う、七十代ぐらいのおじいさん。

「ごめんなさい」

 と、わたし。

 前方からおじいさんが歩いてくるのは見えていた。近所に住んでいるのであろう。綿シャツにズボンのいでたちは特別な印象もない。おじいさんとわたしが互いの進路の邪魔になるほどに接近したのは、たまたまそうなっただけで、どちらか一方のせいではなかったはずである。

 失礼とか、すいませんとか。言葉はなくても会釈をする。もしくは、なにごともなかったかのように去ってゆく。これがだれかとぶつかりそうになった折の、よくある反応ではあるまいか。

 それだから、その言いように驚いた。驚いて振り返りそうになったが、怖くてやめた。まさかなんの変哲もないおじいさんが、あんなことを言うとは……。虫の居所が悪かったのか。それとも毒づかないわけにはいられない性分なのか。

 

 そも、なにごとにおいても不平不満を言えばきりがない。

 元首相が言った「あなたと違うんです」。あのときは意味が限定されていたとしても、「あなたと違うんです」は言い得て妙である。

 だれもが自分とは違う人の中に身を置いているのだ。意見や思考ややりかたの違いに、感情の赴くまま「それはちがう」とまくしたてるか。なるほど、そういう考えもあると受け止めるか。はたまた関わらぬようにするか。対応のしかたに人柄や品格のありようがあらわれる。

 わたしなんぞ小心者であるから、たいていはそういう考え方もある、と、やり過ごす。どうなの?と思うことはままあるが、胸の内であれこれ思うだけだ。

 わざわざ意見したり毒づいたりして、不愉快になりたくない。できるだけだれとでも穏やかな関係性でいれるように過ごしてきた。

 しかし。

 仕事を始めたとたん、穏やかな関係性?そんな甘っちょろいことを言ってる場合じゃなくなった。なにしろ仕事には責任問題が生じる。管理職に就く人はやり方や考え方のちがいを一刀両断しなければならないのにちがいない。相手が不愉快になろうとそれは二の次なのだ、きっと。

 そうだった。仕事とはこういうものだった。でもね。「立場に関わらず、相手を不愉快にさせない伝えかた、ものの言い方を心得ているひとはいくらでもいますけどね」胸の内でつぶやく。

 

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本日8月22日で10歳になった甥っ子の足(21.5センチ )

これからお誕生日プレゼントを買いに行ってきます。

西野 そら 

 

 

どうにもト・マ・ラ・ナ・イ

 気がつけば、8月も半ば。

 肌を刺すような強い日差しの日もあったけれど、年々蒸し暑くなってきている。日陰に入ったとて、纏わりつくような湿気からは逃れられず、逃れる方法はクーラーをつけるしかない。が、クーラーをつければつけたで体が重くなる。 

 自然の暑さにも人口の涼しさにも対応しづらくなっている。いったいどうすりゃいいんだか。

 この蒸し暑さでなにより厄介なのは、少し動くだけ滝のごとく流れる汗である。それもわたしの場合、汗をかくのは首から上の頭と顔。一度汗が流れだすと、そうそう止まらないから、電車にのる外出がじつに難儀なのだ。      

 うちから最寄り駅まで歩いて7分。さして歩くわけでもないのに、ホームに到着し歩を止めるや、首筋にツーと汗が流れる。ポツポツと鼻のまわりに汗が吹きでる。

 首をハンカチ、それもタオルハンカチで拭う。すぐさま鼻にも押し当てるがその隙に首スジからも髪の生え際からも汗が流れる

 顔を拭いては首を拭う。首を拭いては顔を拭い、この時点でタオルハンカチはしっとりとなる (でかけるときはタオルハンカチを2枚持たなければ間に合わない)。少しでも涼もうと扇子を仰ぎもするが、生ぬるい空気をバタバタしたとておさまるような<柔>な汗ではない。ほどなくして冷房の効いた電車の乗客となるが、いつまでたっても汗がひかないから、ほんとうにイヤになる。

 押し合うほどではないにしても、前後左右近くに人がいる狭い空間。止まらぬ汗が恥ずかしい。これだけ汗をかいているのだから、汗臭いかもしれず。申し訳ない気持ちと恥ずかしさで、別の類の汗がでてくる。

 こうして、目的の駅に到着するまでわたしは汗とたたかう女、いや、ハタから見ればオバサンとなっているのだ。まったくこの時期の外出の難儀なことといったら……。

 でもしかし。この蒸し暑さに辟易しようとも、季節はめぐり秋の気配を感じるこのごろ。まさかこれで終わらないよね。もう少し夏にとどまってほしいと思っているのだから、手前勝手なものです。

 

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先週末、茨城県の海。

ひたち海浜公園であったロックフェスに娘を

送って行った夫が撮ってきてくれました。

片道3時間の小旅行。

西野 そら

 

 

 

土産のはなし

 旅行の土産を買ったり、もらったりする時期だからだろうか。

「3年生の夏休み明け、マナからお土産もらったじゃない。あれには驚いたよね」

 と、次女。どうやら小学三年生当時の思いがけない土産のことを思い出したようである。

 

 思いがけない土産のはなしのまえに、わたしのへそ曲がりのはなしをひとつ。

 土産は差し上げる立場でももらう立場でも気をつかう。

 とはいっても、儀礼的な多数にむけた箱菓子土産なんぞは、集団の場に身を置く者としてのたしなみ。言ってしまえば形式的な土産といえなくもないから、差し上げる立場であろうが、もらう立場であろうが気楽でいられる。

 気をつかうのは個々への土産だ。これまで何人ものひとから、いろいろな物をいただいておいて、こんなことを言うのはなんであるが、わたしは土産をもらうとき「へっ?」となることが少なくない。

 なんせ、たいていの場合、いただくそのときに、その人がどこかへ旅していたことを知るのだもの。土産を受け取りながら、

「ありがとうございます。あら、沖縄に行ったんだ。で、沖縄のどこに行ったの?天気は大丈夫だった?」

 突然の到来物に戸惑っていることを気づかれぬよう、差し障りのないことを訊いたりして、その場を繕うなんてことは茶飯事。

 なぜ、戸惑うのか。いまの時代どこにいてもたいていのモノが簡単に手に入る。土産物屋の品揃えに、あえてここで買わなくても。そんな気持ちにならないわけではない。こんなふうだから、旅先で友人、知人の好みと思われるモノたちに出合ったとしても、逡巡はするが結局は手に取らないのだ、わたしは。

 土産は煩わしい慣習と、思い続けてきた。

 それが、だ。冒頭の思いがけない土産の話で「あらっ」となった。

 

 マナちゃんは次女の同級生。中学生から仲良くなり、違う高校に通ういまも頻繁に会う友だち。

 このマナちゃんが顔見知り程度であった小学三年生のときに、どうしてだか次女に土産をくれたのだ。当時は思いがけない人からの土産に次女もわたしもそうとうに驚いたのだった。

 

「どうしてマナはあのとき、お土産をくれたんだろう?」

「どうしてだろうね。でもさ、旅行中にあなたのことを思い出してくれたってことだか、なんだか嬉しいじゃない」

 自分の言葉にはっとした。土産への偏見がわずかに緩む。

 

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日曜日の空です。

西野 そら