西野そらの日々の事ごと

「書く」ことを暮らしのなかの一つに。日々の些事をどう受け止め、考えたのか。忘れないように。

夏といえば……

 夏といえば入道雲。素麺。蝉の声。かき氷。浴衣……。「夏といえば」のあとに置く言葉は数多あれど、今夏のわたしはこれだ。

 夏といえば高校野球

 次女は高校3年生。甲子園をめざす同級生が予選のコマを進めるべく、闘いの只中にいる。只中にいるのは同じ学校に通う球児たちだけではない。中学時代の同級生で、小学校に上がったころから知っているTくん、Oくん、いまでもたがいの家を行き来するMちゃんは野球部のマネージャーとして、それぞれの学校で甲子園をめざしている。

 次女はダンス部。野球とは無縁そうであるが、ダンス部が野球部の試合の応援担当なのだ。ただダンス部は3年生になるや引退するため、同級生の応援はできない。野球部の応援は高2の夏が最後となる。そのうえ、平日にある試合は授業で応援にゆけないため、早々に予選敗退となれば球場に足を運べない。次女の学年は一度も球場にゆけずに、引退したのだった。

 ところが。ことしはちがった。

「野球部の試合、日曜日なんだって。後輩たち、スタンドで踊れるんだよ」

 興奮ぎみに、そしてわずかに羨望の面持ちで次女が言った。わたしは後輩の子たちが踊る姿を観たくなった。

 

 試合当日の日曜日。

 試合開始は昼過ぎ。サングラスをしていても眩しいほどの日差し。まとわりつくような暑さで、最後まで試合を観ていられる気がしなかった。

 入場口からつづく短い階段を上るとスタンドに出た。一気に視界が広がる。青い空。大きなスコアーボード。緑の芝生と茶色い土。白いユニホームに身を包む球児たち。スタンドで声援をおくる人。管楽器の音と歌声。金色のポンポンを手にチアの衣装で踊るダンス部。かつてテレビで目にしてきた光景が目の前にあった。

 はじめのうちは、目当てのダンス部の踊りが気になったが、日陰のないグラウンドに立つ球児たちのひたむきな闘志に目が離せなくなってくる。目を凝らすと、グラウンドに立つのはレギュラーの選手ばかりでない。一塁と三塁には走塁を判断する選手がいる。審判員たちは回が変われど、グラウンドに立ちっぱなしじゃないか。

 娘の学校の選手を応援するのが筋であるが、炎天下でプレーをする相手チームの選手も、走塁を判断する選手も、審判員にさえもガンバレと言わずにはいられない。胸の内ではあるけれど。スタンドで応援する部員、子どもを応援する保護者、先生たちにもだ。

 

 年々暑くなる一方の夏。炎天下で行われる高校野球のありかたに疑問を感じていなかった訳ではない。ただ、身近な人たちが臨む高校野球をみると、否定的なことばかりもいっていられなくなる。

 しかし。長袖に長ズボン、ソックスにストッキングのユニホーム、あれはなんとかならないものか。如何せん暑苦しい。

 

f:id:sosososora:20180717044321j:plain

 金網にピントを合わせたわけではないのですが……。

西野 そら

背中合わせ

 わたしはネガティブ思考らしい。家族がそういうのだからそうなのかもしれない。わたし自身はそうかしらと、てんでピンとこないけれど。そも、ネガティブ思考になったりポジティブ思考になったりするのが、ヒトじゃなかろうか。

 なにかをするにあたって、見込むことは大切である。家族に向けての「ああしたほうがいいよ」「こうしたほうがいいんじゃない」は工夫してごらん。気構えをしておいたほうがいいよ、ということだ。しかし家族からすると口うるさく、考えすぎ、それも悪いことを想定しすぎとなり「本当、ネガティブだよねえ」。ネガティブを悪者にして、「もっとホジティブにいこうよ、そんなに考えてばかりいると疲れるよ」と、あいなる。

 否定的にとらわれがちな考えすぎは、見込むから対策ができるわけで、ネガティプ思考がポジティプ(肯定的)な結果をもたらしもするのだ。

 わたしは、というよりわたしたちは、単純ではあるけれどいろんな単純が重なり、思い設けぬほど複雑な部分を持ちあわせている。それが黒でもなく白でもない、グレーの部分なのかもしれない。グレーといったとて、黒に傾いて雨雲みたいなグレーにもなるし、雨がやみかけの明るいグレーにもなりうる。

 

 そうだ。わたしの見込みがよい方向にはたらくと、家族はまたアレがはじまると構える。

「ほらね。だから、言ったじゃないの」

これをやるときのわたしは、言い得ぬほどの得意顔をするらしい。されど、また逆の場合もしかりで、ポジティブ思考であることに気をよくしている夫や子どもたちも、これをやる。

「ほらね。考えすぎだったでしょ? ホント、ネガティブなんだから!」

 

 

f:id:sosososora:20180710125745j:plain

15年前にリフォームしてから、

月に一度の換気扇掃除は自分との約束。

外せるところは全部外します。

昨日は、フィルターの留め金がグリルの排気口に落ちて

ガス屋さんに来てもらいました。

「ガスコンロ、そろそろ替え時ですよ。

15年は長いですね」

思いがけない宣告をされました。

西野 そら 

夏のキラキラ

 

 葦簀越しの眺めがすきだ。

 うちの居間は西側に面していて、冬は西向きの居間でよかったと思う。エアコンの暖房をつかわずとも、ホットカーペットとオイルヒーターでしのげる程度に部屋を暖めてくれる。23年前の冬ここに越してきたときには、マンションの利点である密封性を考慮しても部屋の暖かさ、とくに居間が暖かいことに感激した。

 されど。季節がめぐった初めての夏には、西日の威力に辟易したのである。洗濯物を夕方ちかくまで干せておける夏の良さはあるにしても、洗濯物を取り込んだ途端、強烈な陽射しが居間にはいってくる。カーテンを閉めればいいが暗い部屋で過ごすのはちょっと、ねえ。で、日除けなわけだ。すだれをかけた時期もあるし、洒落た日除けシェードの購入を考えたりもしたのだけれど、確たる理由もなくもとめた9×6尺の葦簀、これがよかった。以来15年、葦簀一辺倒である。

 午後、9×6尺の葦簀を立てかけ、朝になれば巻いて脇に立てかけておく。巻いたり伸ばしたりする際、葦がポロポロと折れてベランダが散らかる難点やその後の掃除などの手間はあるが、葦簀越しの風情ある眺めをどうしても手放す気にはなれない。

 ことさらすきな眺めは、ギラギラした陽射しでベランダの手すりとステンレスの物干し竿がキラキラ反射する、葦簀越しのキラキラ。

 夏はさほどすきではないが、わたしにはこの眺めは夏のよさの一つである。

 

  ことし(2018年)関東では7月待たずして梅雨があけた。ここ数年、梅雨期であることを感じない6月、7月ではあったけれど、とうとう7月をまたずに梅雨あけの現象を引き起こすほど、なにかが変化しているのであろうか。それともことしに限ったことなのか。

 そのうえ。雨が降らないかわりなのか、やけに風がふく。ここ数日、葦簀越しに洗濯ハンガーが激しく揺れるのを見て強風に気づいた。そして気がつくや、葦簀が傾く。

 強風がなんども葦簀を傾けた日。わたしは葦簀の端に紐をくくり、ベランダのタイル壁に引っ掛け金具を貼り付けた。傾かない葦簀、一丁あがり。

 

f:id:sosososora:20180703173707j:plain

右端のキラキラ、わかりますか?

西野 そら

 

役目

 たとえば、学校の保護者会。先生の笑いのとりかたにピンとこない。大人の集まりといえどもそう長くは続かないのが集中力である。先生は保護者たちの様子を察知しながら緩急をまじえ話される。「はい、ここが笑いどころ」という箇所では、笑うための間もあって即座に反応するひともあれば、まわりが笑っているから笑うひともあり、笑わぬひともある。思い通りに笑いが起きない場合は「ここ、笑うところです」と発言される先生もある。

 わたしは先生の発する可笑しさに気付けぬまま、周りからあがった笑いにハッとして形ばかりフフフと笑う。そして、胸の内で思う。なにが可笑しいんだろう。あまりにも機知に富んだ話で、わたしがついていけてないだけなのか。先生の「はい、笑って!」の号令に、だからなにを笑えばいいの? わからないことが少なくない。

 

 先日、『だから?』(*)という絵本を読んだ。

 なにをしてやっても喜ばない気難しいビリーのために、いろいろとしてやるお父さん。「だから?」がキーワードのおはなし。

 ビリーが口にする「だから?」のあとには、なにを期待しているの?という言葉が見え隠れする。だれかの(絵本の場合はお父さんであるけれど)計らいのもと発せられる言葉や振る舞いには、子どもでなくとも時として「だから?」と言いたくなることがある。小さなビリーは感じたままに「だから?」を言い続け、最後にどんでん返しがふりかかる。ここにはどんなどんでん返しだったか書きませんけれど。

 

 絵本を読み終えて、こうも思った。「だから」のあとに続くのは「なにを期待しているの?」だけではないな、と。見聞を広めるそのうちに「だから、面白かったんだ」「だから、怖かったんだ」「だから、お父さんはこんなことをしてくれたんだ」ものごとの根拠や道筋を知ってゆくのである。

 だから、いろんなことを子どもに言ったりしてやったり、あえて言わなかったりしてやらなかったりすることは大人(親だけに限らず)の役目。

 

  (*)『だから?』(セーラー出版)ウィリアム・ビー作 たなかなおと訳

 

f:id:sosososora:20180626170034j:plain

撮影 夫

西野 そら

生まれ変わるとしたら

 「もう、生まれてこなくていい」

いまの知識と記憶を残すことがきるとして、次に生まれて来るとしたらなにになりたいかと夫に訊いたら、こう返ってきた。またまた、なにをおっしゃいますか。真剣なはなしじゃないのよ。いまの知識と記憶があって生まれ変わるとしたらっていう、もしもの話ですよ。念をおしてもう一度訊いてみる。

 それでも夫は、いまを十分頑張って生きてるから、また生まれてきてこれを繰り返したくはないのだそう。こう書くとなにやら深刻そうであるが、夫もわたしも笑いながら話している。笑ってはいるが、もしもの話というのに生まれてこなくていいと言い切る夫の生きることへの切実さ、一家を養う大黒柱の責任と言うか、男の悲哀というのか。そんなものを夫はほんの少し匂わせたのだった。

 

 と、ここまで書いて気がついた。昨年が銀婚式だった。夫もわたしも記念日には重きをおかない。それだから、これまで結婚期間を考えたことがなかった。25年以上もともに過ごしてきたとは……。

 夫の新入社員の時代は上司や周りの社員にいかに仕事をしてるように見せるか。仕事終わりにどうしたら先輩の誘いをくぐり抜け飲みに行かないですむか。そんなことに工夫を重ねるような若者であった。仕事より家にいたい若者は子煩悩な父となっていった。そして年齢とともに仕事も重責をになうようになり、いつからか取締役の任を受けたのだそう。なのだそう、とはあまりにも他人事すぎるか。

 家では若者がおじさんになったという夫の変化は感じてきたが、おじさんが取締役になったという変化をそうそう感じない。それだからなんだか他人事のような気がしてならないのかもしれない。

 出勤前わたしからゴミ袋を受け取る夫は「取締役なんですけど」と、ふざけて役員の身を主張したり。車の買い替えを実現させるべく、折にふれサブリミナル効果さながらに車のパンフレットをわたしのまえでチラつかせたりする。これだから一向に役職と夫とがつながらないのだ。

 しかし、ふざけたがりの夫が「もう、生まれてこなくていい」と言いきった。楽しみと苦しみ、喜びと哀しみが綯い交ぜになっているのが、生きるってことだ。

  

f:id:sosososora:20180619032629j:plain

数日まえの月

西野 そら

そしてわたしは途方に暮れる。

 雨の日はきらいじゃない。きらいじゃないけれど、今は少しばかり憂鬱。

 憂鬱の原因は自転車通勤。いや、自転車通勤が憂鬱なのではない。雨合羽だ。嵐の

ような雨の降りかたでないかぎり雨合羽を羽織って、わたしは自転車を走らせる。

 

 昨年外での仕事を得た。四半世紀ぶりである。それゆえ初めて経験することも少なくなく、雨合羽をきて自転車に乗ることもその一つだった。なにも雨の日にまで自転車通勤することはないのだけれど、歩くと30分はかかる。電車に乗ってもさして変わらないのだ。朝の忙しなさを考えると、通勤時間を短くしたい。背に腹は変えられぬ。そんなこんなで、雨の日でも自転車通勤をしている次第。

 実をいえば仕事をはじめるまで、雨のなか雨合羽を羽織って自転車に乗るひとの姿をみるたびに気圧されるようなところがあった。歩いちゃだめなの?そんな疑問がわかないでもなかった。今ならわかる。歩きじゃだめだったのだ。

 立場が変われば見方も変わる。なにごとにおいても、一方的な見方だけをして早急にものごとを決めつけてはいけないと承知はしているし、つとめてもいる。が、目に映らない事ごとを想像する難しさは、折に触れ思い知らされる。思い知らされながら、立場の違いを知り、あれはちがう。これはちがう。とたやすく言わなくなってゆくのかもしれない。

 

 で、昨年初めてもとめた自転車用雨合羽。ハンドルを握る手が濡れないように前身頃がハンドル部分まで覆えて、足も濡れにくい大きなマントのようなつくりになっている。ちょっとやそっとの雨では濡れないスグレモノである。それだというのに、色選びに失敗した。雨で視界が悪くとも目立つようにと選んだ臙脂色。目立つなんてものじゃなかった。主張している。すれ違うひとは臙脂色の塊の正体を突き止めようとしているのか、やたらジロジロみてくる。信号待ちのときなんぞ、通り過ぎる車のドライバーや助手席に座るひとが二度見している(本当のところはわからないけれど)ような気がしてならない。

 ああ、臙脂色の憂鬱。

 

f:id:sosososora:20180612165538j:plain

ことし仲間入りしたレインシューズ。

無難を最優先に色を選びました。

西野 そら

野菜の教え

 いつも行く八百屋さんで梅と目があって、たじろぐ。もうそんな時期……。小ぶりの梅に季節の移ろいを教えられる。

 昨年は5キロ買って梅干しをつくったけれど、ことしは手をだしません。きっぱりと梅と自分に宣言して、梅の横に置かれている枝豆を手に取る。そういえばスーパーマーケットにはあったトウモロコシが八百屋さんではまだでておらず、スーパーマーケットには置いてなかった沖縄スナックパインが手を振っていた。

 季節の変わりめ、旬野菜のではじめは大型店舗と個人商店とで仕入れる野菜が微妙にちがう。そしてそのちがいが、よい。枝豆、サニーレタス、ズッキーニ、小松菜、新ごぼう、スナックパインをもとめ八百屋さんをあとにする。

 

 昨年4月から1年契約ではじまった外での仕事が、思いがけずいまも続いている。そのうえ今年の4月からは出勤日がそうとう増えた。思いもよらない変化であった。きっとこの変化に抗うことはできたのかもしれないけれど、成り行きに任せた。たった1年でこの仕事を手放すのは惜しい気もしたし、ジタバタして過ごした年をジタバタしただけで終わらせたくもなかった。なにより仕事を知ってゆく面白みを経験したかったのだ、わたしは。

 そんなわけで昨年からの変化は、今年さらなる変化を遂げた。

 変化はわたしをかなりくたびれさせた。季節の移ろい?それどころじゃないわ。こんな具合。自転車通勤の行き帰りも新緑には目が向かず、アスファルトに目をおとしていたのにちがいない。

 だから。梅と目があったとき、わたしはたじろいだのだなあ。たじろぎはしたが、八百屋さんをでるときには、なんだか力が沸いていた。

 夕飯のビールと枝豆のおいしかったこと。

 

f:id:sosososora:20180605172559j:plain

スナックパイン。

ひと節ずつちぎって食べるのも楽しい。

西野 そら